文化政策の水準


 嘗て床次内相の時代であつたかに、国民精神を作興するについて浪花節の奨励を考へたことがある。当時の輿論はこれを時代鋳誤として笑つたやうに記憶してゐる。私は必ずしも浪花節の奨励に反対するものではない。しかしそれが笑はれたのは、政府がその文化政策において国民の文化的水準を余りに低く見たことに依るであらう。
 文化政策にとつて重要なことは国民の文化的水準を的確に秤量するといふことである。教育する者は教育される者の知識の程度を正しく認識して掛らなければならぬ。しかるに我が国の文化政策においてつねに感ぜられる欠点は、それが大衆の文化的水準を余りに低く見てゐるといふことではなからうか。
 この認識不足のために文化を向上させる筈の文化政策が却つて文化を低下させることになつたり、主唱者の努力にも拘らず一向効果が挙がらぬことになつたりしてゐる。しかもこの認識不足は、我が国においてはいはは「自然的な意」である。我が国のやうに近代的文化が急速に発達した処では、年齢の差は教養の差を性質的に区画し、老人が青年の文化的雰囲気を理解するといふことは、彼が特別の文化人でない限り、まづ不可能に属してゐる。文化上の革新には特に青年の力が興らねばならぬ所以である。
 例えば、青年は音楽において大抵洋楽を好むやうに、映画においても大抵洋画ファンである。この頃彼等の憂鬱の一つは、輸入禁止によつて洋画が追々見られなくなつてきたといふことであらう。私はあまり映画を観ないし、格別の洋画ファンでもないが、映画を単に娯楽と考へることには反対であり、洋画の輸入は洋書の輸入と同じやうに取扱はれても好かりさうに思ふ。洋画の輸入禁止が邦画の発達にとつて好機会になるといふことも考へられ、それはまた最も望ましいことに相違ないが、それならそれで補助金その他の方法によつて洋画ファンを惹きつけるやうな優秀な邦画の製作をもつと積極的に奨励しては如何であらう。これなど文化政策の水準を少し高いところに置けば、その必要が早速考へられることである。
 国民の文化的水準を低く考へ過ぎるといふことは上からの統制の陥り易い故点である。国民精神総動員に関する従来の運動の如きも、国民の智的水準を低く見過ぎてゐるために効果が乏しかつたといふことがないであらうか。


(四月十二日)