叱られる知識階級
知識階級が叱られてゐる。彼等はいつまでも「進歩的」といふやうな観念にとらはれて現実を直視し得ないといつて叱られてゐる。知識階級を叱ることが一種の流行にさへなりつつある。
尤も、知識階級が叱られるのは今に始まらない。嘗ての左翼時代にも彼等を叱ることが流行した。今日再び彼等はいろいろな言葉で叱られてゐるのであるが、その意味は詮ずるところ、以前に「日和見的」といつて叱られたのと同じであると思ふ。
この時代において知識階級がかやうにいつも叱られてゐるとすれば、日和見的といふことは何かインテリゲンチャに普通の特質であるであらうか。実際、インテリゲンチャは行動家、とりわけ政治的行動家の眼には日和見的と映ずるやうなところを持つてゐる。知識階級は今日においても現実を見てをり、思想的にも考へてゐると私は信ずる。しかし彼等の知性が物を客観的に、従つて距離において見るものである限り、行動家からは何か、日和見的と考へられるやうなものがあり、また彼等も単なる行動のプログラムのやうなものでは決して思想的に満足させられないであらう。
インテリゲンチャを叱ることを好む者は誰よりもインテリゲンチャ自身である。最も行動的な人は今日却つて彼等を賞めてゐる。出征した知識階級が如何に有能に戦つてゐるかは、その部隊長らによつて証言されてゐるではないか。日和見的に見えるインテリゲンチャにしても、いざとなれば勇敢に行動し得るのである。
知識階級が日和見的であるといふことはもちろん単なる日和見主義であつてはならぬであらう。それは寧ろ物を距離において見るといふ知性の本質から来るものであり、従つて非常時にも「平時の如く」といふ精神となつて現はるべきものである。しかし今日こそ知識階級をも満足させ、彼等をも熱情的に引摺つてゆくやうな思想が生れなければならない。単に行動のプログラム即ちいはゆる国策の平面において知識階級を叱るばかりでなく、それを包んで超えたやうな真の思想を作り出さなければならぬ。それ故に知性が十九世紀的な批評的立場から新世紀的な創造的立場に移ることが必要であり、この知性そのものの転換こそ、いはゆる主義の転向よりも更に根本的に重要なことである。今日やたらに知識階級を叱つてゐる者に果してかやうな知性そのものの転換が行はれてゐるであらうか。
(三月二十九日)