理想の再生
先般行はれた警視庁のいはゆる不良学生狩に対して最も多く拍手を送つたのは学生を子供に持つ親たちであらう。私は彼等の心理に同情することができる。しかしこの機会に彼等にもまた反省すべきものがあることを忘れてばならぬ。
その子弟を学校に出す家庭に教育の理想といふものがあるであらうか。あの学生の赤化が頻りに伝へられた時以来、親たちは自分の子供に対する理想的な要求を全く棄ててしまつたやうに見える。赤化さへしなければ、たいていのことは見逃しても好いといつた風が彼等の気持に浸潤したのである。子供が読書や研究に熱心であればむしろ赤化しはしないかといふ危惧を感じた。赤化の前に家庭は自信を無くし、理想を失つてしまつたのである。子供が偉くなるといふやうな漠然とした理想さへ失はれ、ただ「間違ひ」のないことのみが願はれた。赤化が殆ど見られなくなつた今日においても、家庭は同様に理想のない、自信のない状態を続けてをり、そしてそれがおのづから現代学生の心理に影響してゐるのである。
学校もまた同じである。頻々たる赤化事件以後、学校もまた自信を無くし、理想を失つてしまつた。学校においてもただ「無難な」学生を作ることにのみ力が注がれた。今日の学校のうちに果して理想が再生したかどうか、私は知らない。それは或ひは理想を説いてゐるのであらう。しかし若し学生が、そのやうな学校も実践的本質においては営利主義のものであることを承知してゐたら、どうであらう。今日の学生には物の裏を考へてみないやうな単純な人間は甚だ稀である。
家庭も学校もすでに十年以上も「無難な」学生を作ることに努めてきたのであるが、その無難といふものが如何なるものであつたかが、現在「非常時」にあたつて明瞭にならざるを得なくなつたのである。それが今度のいはゆる不良学生狩の大きな教訓である。数千人に達するといふ彼等の多くは決して不良でなく、むしろ無難な青年であらう。私は彼等が身を滅してしまつたといふことをあまり聞かない。彼等は享楽の追求においても理想主義者でなくて現実主義者である。しかし無難な学生が非常時にふさはしい学生でないといふ一新については、私は当局の見解に賛成する。
私は現代学生の身についた現実主義を一概に排斥するものではない。しかし今日最も必要なことは、その現実主義の中からの理想の再生である。学生の気風の革新にとつて根本的な問題は、享楽機関の駆逐でも取締の強化でもない。現実主義の極から理想が再生して来ることである。しかもこれは決して単に学生のみのことではない。
(二月二十二日)