革新と実験



 どのやうな革新も実験の意味をもつてゐる。しかし社会における実験は自然科学における実験とは性質が違ふことに注意しなければならぬ。
 自然科学者は、自分の研究室で、機械を使つて実験する。彼の実験が失敗したとしても、他の人間に迷惑を及ぼすことは無く、或ひは極めて少く、また幾度でも彼は同様の実験を繰返すことができる。実験が成功すれば、彼の抱いてゐた理論は証明を得て、広汎な自然現象に対しつねに妥当するものとして示される。理論は実験において検証されることを要求してゐる。
 しかるに社会現象については、これと同じ仕方で実験を行ふことは不可能である。何等かの革新的な理論は未だ実験を経てゐない理論であり、革新そのものがこの場合その実験である。革新的な理論の正しさは革新の実行によつて証明されるのほかないと云ふことができる。けれども若しこの実験が失敗すれは、それによつて多数の人間が迷惑を蒙ることになる。その上この実験は繰返すことができない。なぜなら、一度実験が失敗すれば、その失敗のために以前とは異る新しい状態が作り出されることになるから。すべてが一回的であつて同じことが繰返されない歴史においては、実験はつねに冒険である。
 あらゆることが証明されたのち初めて革新に取り掛るといふことはできない。革新的なものはなほ不確実なところがあるから革新的なのである。今世紀において世界の諸国で行はれた革命はまことに大きな実験であるが、その結果を確実に判断し得るまでには至つてゐないであらう。我々はそれから学ばねばならぬにしても、それを直ちに我々の国で模倣しようといふことは一つの実験以上に出ない。しかも歴史においては実験は繰返され得ないものである故に、この実験自身にも多くの創意を要するのである。公式主義的模倣は許されない。
 社会における実験は冒険であることを免れないとすれば、この実験には勇気を要することは勿論であるが、その冒険的なところを知性の働きによつて出来るだけ少くするといふ用意もまた大切である。この実験においては多数の人間が賭けられてゐるのであるから。かやうな実験家の最大の道徳は責任を重んずるといふことである。すべての政治家にとつて思慮は責任感から出てくる。しかも彼の実験は大衆の協力がなければ決して成功しないのであるから、自分の実験しようといふ理論、つまり革新の指導原理を積極的に掲げて大衆の支持を得るに努めることが要求されてゐる。


(二月八日)