官吏の再教育
官吏制度の改正とともに官吏再教育の必要が主張されてゐる。社会の進歩の線に沿うて官吏を再教育しなければならぬといふ説はもちろん正しい。ただその際、再教育の意味をしつかり考へてかからないと、その手段方法を誤り、所期の目的は達せられない。
教育といふことは人間の単に一定の時期のこと、何か特別のことであるのでない。我々の生活のすべてが我々にとつて教育の意味をもつことができ、立派な人物はそのことをつねに賛成してゐるのである。自分の仕事に責任を感じ、これを善くやつてゆかうとする意志のある者は、そのために必要な調査、研究、読書等を怠らない筈である。従つて逆に考へると、官吏再教育の必要が生じたのは、この頃議会で論ぜられてゐるやうに官吏が自分の仕事に対して責任を重んじない傾向があるといふことに関係してゐる。ただ年功で昇進し得るので、失敗を避けることだけを心掛けて積極的に仕事をしようとはしない気風が存在するために、勉強などする者が少くなつてゐることから、官吏再教育の必要が唱へられるやうになつたのである。
教育といふことはおよそ独善とは反対のことである。独善的であつては、他人から教育されることも、他人を教育することもできない。従つてまた逆にいへば、官吏の再教育は既に喧しくいはれてゐるやうな官僚独善の弊が存在するところから必要になつてきたことである。
かくして官吏の無責任とか独善とかといはれるものに官吏再教育の必要の生じた原因があるとすれは、先づこれらの原因を除去することが大切であつて、さもなけれは再教育を行ふことも無意味であり、またもしこれらの原因が除去されるならば、形式的に再教育を行ふ必要もなくなるであらう。官吏の再教育そのものも現在では官僚的形式的になる惧れがあり、さうなつては何等効果がない。
再教育のために大学の講義を官吏に強制的に聴かせるといふやうなことは、すでにその形式化の第一歩ではなからうか。高等学校、専門学校等の教授の再教育のための内地留学と称せられるものが果して実績を挙げてゐるかどうかを考へてみるが好い。再教育が実は慰労の一種になつてしまふ危険もあるのである。学校だけが教育の場所であるかのやうに考へることがすでに形式主義である。役所に豊富な文庫でも備へて、官吏に読書の習慣を養はせることなども好からう。形式に流れない教育方法の欠乏が今日の日本の社会において一般に痛感せられるのである。
(二月六日)