予言の一年



 「予言の一年」といふのは、嘗てウェルズが、その一年間に書いたジャーナリスチックな論文を集めて出版した本に附けた名前である。この新年初めて書庫に入つた時ふとこの本が眼にとまり、私はそのうまい名前に興味を感じたのである。
 予言の一年! 私はこの年、西紀一九三八年を、ジャーナリズムの立場において、かやうに呼ぶことができさうに思ふ。尤も、そのやうに呼ぶこと自体がすでに一つの預言に属してゐるのではあるが。
 支那はどうなる? ヨーロッパはどうなる? 日英関係は? そして日本の経済は? 等々について、支那事変以来特に多くの予言的議論がなされてきた。かやうな予言的議論は今年において止まないのみでなく、恐らく更に甚だしく拡大するであらう。
 今年が初めて予言の年であるのではない、我々は既にかなり久しく予言の時代にあるといつて好いであらう。数年前までは左翼の人々が資本主義の没落その他について様々な予言をしてゐた。それに代つて最近ではまた右翼の人々が他の方向において種々の予言に熱中してゐるのである。
 予言は現代の社会心理にふさはしく、その産物である。社会のうちに大きな変化、動揺、不安が存在した場合、つねに予言は求められ、そして予言は生れたからである。この時代において人は予言的なもののほか喜ばない。人は科学では満足せず、科学ですらが予言的になることを要求し、また予言が科学に代るのである。
 我々は予言を全く無価値とは考へないであらう。すべての行動は何等か確言的なものを必要とするといふことができる。予言は神話となり、動揺と不安とのうちにある人心を統一して一つの方向に動かすことができるであらう。予言は同様の社会心理から出てくる流言蜚語の如きものに比して或る積極性を有するだけ価値を有するともいひ得るのである。
 しかしまた、この時代において予言と科学とを区別し、科学の意義を忘れないことが肝要である。予言は科学によつて統制されねばならず、科学はまた時には予言の解熱剤として用ひられねばならぬ。特に警戒を要することは、科学者が時代の風潮に感染して予言者的になり、科学の名において予言を行つてゐるといふことである。大切なことは反対に、かやうな予言の時代においてこそ、科学者はいよいよ冷静になり、批判的態度を持するといふことでなければならぬ。科学の政論化が科学者をいつのまにか予言者に変へてゐるといふことに注意すべきであらう。

    (一九三八年一月四日)