北支文化の一礎石



 外務省文化事業部では軍部の協力を得て、わが伝染病研究所にも比すべき一大衛生施設を明春早々北京に設置することに決定したやうである。まことに機宜を得た計画であると思ふ。
 支那といへば、南京虫と一緒に、コレラ、ペスト、天然痘、発疹チフスなどの伝染病がすぐ聯想される有様であり、そのうへ今度の事変のためにかやうな疾病の危険が特に大きくなつてゐる場合、伝染病を中心とする研究機関が北支に設置されることは、甚だ喜ばしいことであるといはねばならぬ。
 現在支那には医者が少く、そしていまだに西洋医学よりもいはゆる漢方を信ずる者の方が多いのであるが、この際日本の力によつて近代医学の価値が支那の大衆に理解されるやうになることは、支那の文化の発達のために望ましいことである。そしてそれと共にもはや西洋にも劣らないと称せられる日本の留学の力が支那において発揮されるに至ることは、日本文化のためにも好ましいことに相違ない。
 更にこの衛生機関の設置は、大きく見れば、今後における北支文化工作に対して一般的方針を示唆すべきものであると思ふ。
 即ち先づ、北支文化工作は支那の民衆に直接必要なものから、真に彼等の利益のために行はれねばならぬ。経済上並びに政治上の問題に直接に関係を有しないやうなことが、少し永い目でみれば、却つて経済上にも政治上にも大きな効果を及ぼすのである。目先の利益ばかりを考へるやうな態度は一擲してかかることが大切である。そしてこれは単に文化工作の上のことばかりでなく、実は、経済上並びに政治上の問題についてもやはり同じことなのである。我が国の政策にはこの点において反省すべきものが多いのであつて、多少遠大な計画を持ち出すと、単に大風呂敷を拡げるやうにいはれて排斥されてしまふ傾向があつたのである。
 次に北支文化工作においては、今度計画された衛生施設から考へられるやうに、日本的とか東洋的とか西洋的とかといつたやうな名目に囚はれないで、現在の世界文化において最も価値のあり且つ支那の大衆の文化的向上にとつて最も必要なものを彼等の中へ持ち込むことに努力しなければならぬ。東洋流の漢方医学では伝染病撲滅に対して効果を挙げることができないのである。大陸に発展しようといふ日本人には大陸的気宇が必要である。


(十二月二十八日)