真実は尊い



 新聞紙の伝へるところに依ると、ソヴェトの粛清工作は外交界にまで及んだやうである。
 一般に独裁国については実情が知り難いのであるが、殊にソヴェトの真相はなかなか分らない。従つて今度の粛清工作に対しても軽々しく判断することは控へねばならぬが、それはソヴェトの外交が或る行詰りに出合ひ、転換を必要とするに至つたことを示すと見られてゐる。
 かやうな行詰りの原因についてもいろいろ云はれてゐる。例えば、駐支大使召還か報道されたとき、それは大使が支那の実力を誤測してゐたことが日本軍の迅速な進出によつて暴露したためであるといふ風にいはれた。この説にどれほど根拠があるか分らないし、更にそれが駐支大使召還の最大の理由であるかどうかは疑はしい。ただこの説は独裁国においては真実は伝へられ難いといふ一般的事情を予想して成立つてゐる点で興味がある。
 独裁者の前では誰も彼の気に入りさうなこと、彼の思想に都合の好ささうなことを云ひたがるし、また云ふやうに強制されてゐる。独裁国においては一定のイデオロギーが不動のものとして前提され、その見地からのみ物を見ることが許されてゐる。その観察が事実に合はない場合においても、変化されるのは思想でなく、却つて事実に対して暴力が加へられる。これも事の真偽は分らず、説の当否も確かでないが、今度の事変において支那が日本の実力の認識を誤つたのは日本に対するソヴェト的な認識の仕方が支那において普遍化してゐたためであると云ふ者がある。
 しかし問題はソヴェトでもマルクス主義でもない。重要なのはかやうに真実が伝へられず、真実が知られないといふことは独裁国の陥り易い欠点であるといふ一般的命題である。
 ともかくソヴェト外交の行詰りや日本に対する支那の認識不足を右のやうに解釈しようと欲する者は、そこに独裁国においては真実を知るに困難であるといふ一般的前提があり、そして真実を知ることは何にもまして尊いといふ一般的結論があるといふことを考へねばならぬ。しかるに今日においてはかやうな一般的理論を引出して、特にこれを自分自身に当て嵌めて考へてみるといふ合理的態度が多くの場合失はれてゐる。ジイドの『ソヴェト紀行』における批評はソヴェトに反省を与へなかつたが、それを利用するファッシストも同じ批評が或ひは遙かに多くの程度において自分自身に対しても妥当しはしないかを顧みることを全く忘れてゐるのである。自分はつねに例外だと考へる者に真実は知られない。


(十一月三十日)