忘れられた問題



 戦争はあらゆるものを自己に従属させる。戦争においては何よりも先づ勝たねばならず、凡てはこの一事に集中される。かやうな集中において他の問題は忘れられるであらう。
 支那事変の始まる以前、解決しなければならぬ多くの問題が存在したことは、誰も容易に想起し得る。国民体位の向上、国民生活の安定等々から、オリンピック大会等々の如きに至るまで、問題は山積してゐたのである。事変の勃発はそれらの問題をすべて忘れさせてしまつたかのやうに見えた。しかし忘れられた問題は存在しない問題ではない。問題の存在する限り、一時は忘れられてゐても、やがて現はれて来るであらう。皇軍の目覚しい成功によつて戦局が著しく進展すると共に、そのやうな問題を再び考へねばならぬ時が来たかのやうに見える。
 一時延期を伝へられた保健社会省の設置が現実の問題となつてきたのは、その一つの例である。実際、保健政策や社会政策の必要は事変と共に消失したわけでなく、寧ろ増大したともいへるであらう。官吏の任用令や身分保障の改変が最近の問題になつてきたのも、他の一つの例である。この問題も既に事変前に盛んに論ぜられたものである。かくして一時忘れられたかの如き多くの問題がやがて、しかも新しい姿において、次々に現はれてくるであらう。
 我々は支那事変が日本の発展にとつて有する大きな意義を認識しなければならぬ。それと同時に事変前にあのやうに喧しくいはれた問題が全く存在しなくなつたかのやうに考へる錯覚に陥つてはならぬ。事変と共に国内改革の必要は消滅したのでなく、却つてやがて倍加された力をもつて迫つてくるであらう。この現実に対して何人も安易な気持でゐることを許されない。
 思想の問題にしても、今日ではただ単に民族主義乃至国民主義と世界主義といつたやうな形で論争されてゐる。問題がそれだけのものであれば解決はそんなに困難なことではない。しかし、例へばナチ主義は単なる国民主義でなくて「国民社会主義」といふ公称をもつてゐる。問題は単に国民主義であるのでなく、また社会主義であり、更に国民主義と社会主義との結合である。国民主義と社会主義とは現実的に結び附くことができるか。「国民社会主義」といふのは現実においては矛盾した概念ではないか。或ひはそれは一層多く国民主義的であるのか、一層本質的に社会主義的であるのか。これらに類する問題がやがて我が国においても真剣に考へられねばならなくなるであらう。問題は存在しないのではない、忘れられてゐるのである。

  (十一月二十三日)