宣伝と教育
今は宣伝の時代である。目下戦争中の日本や支那が宣伝の必要を感じてゐるのみでなく、殆ど全世界が宣伝に熱中してゐる。すでに宣伝戦の激しさはあの世界大戦当時を凌ぎつつある。このことは第二次世界大戦の来るのを告げるものであらうか。少くとも宣伝だけを見れは、第二次世界大戦はもう始まつてゐる。
宣伝はむろん外国に対する宣伝に限られない。対外宣伝と共に国内宣伝が行はれる。宣伝の主要な目的は統制にある。それ故に政治が独裁の形態をとるに従つてその必要は一層大きいであらう。統制の必要であるやうに宣伝も必要であり、統制が悪いことではないやうに宣伝も悪いことではない。
しかし危険なことは、宣伝と教育とが混同されるといふことである。宣伝は恰もそれが宣伝でないかのやうに行はれる場合最も有効であるところから、宣伝は教育或ひは啓蒙の外観を粧ひたがるものである。啓蒙と称して実は宣伝を行つてゐる場合が多く、また今日のやうな統制時代になると、従来の教育機関がいつの間にか宣伝機関に変質してゆくといふことも生じる。
けれども教育と宣伝とは同じでない。両者は種々の点において異つてゐるが、とりわけ重要な区別は、教育はその目的の一部としても、その全体の効果としても、批判的精神を養はせるといふところにある。この点において教育と宣伝とは相反してゐる。宣伝は統制を実現するために批判的精神の活動を抑止しようとするからである。両者を区別して考へることは、宣伝が教育或ひは啓蒙を粧うて行はれる時代においては特に大切である。
宣伝と教育とは相反する作用をなすものである故にこそ両者は共に必要なのである。国民をただ宣伝に乗り易いものにしてしまふことは危険である。一つの宣伝に乗り易いものは他の逆の宣伝にも乗り易いものである。一国の教育家が悉く宣伝家になつてしまへば国は危いであらう。
この宣伝時代においても教育の本質と独自の意義とは強調されねばならぬ。宣伝は国民の健全な常識を破壊しがちである。日本人が宣伝下手であるといふこともその限り憂ふるに足りないであらう。宣伝時代においては国民は特に自己教育によつて健全な常識を保つことが大切である。戦争を終局の勝利と成功とに導くものは国民の健全な常識である。
(十一月六日)