冷静と冷淡
今度の事変に対して一般に知識階級が、特に学生が、冷淡だといふ批評を折々聞かされる。我々は決してさうだとはかりは考へない。「冷淡」と「冷静」とは区別されることが必要である。しかしまたこの区別は紙一重のものであるといふことに注意しなければならぬ。冷静であることは他の人からは冷淡であるかのやうに見られるといふことがあるのみでなく、自分は冷静であるつもりでゐても知らず識らず冷淡に変つてゐるといふこともあり得る。一体、知識階級は冷淡であるのか、冷静であるのか。これは各人がよく考へてみなけれはならぬことである。
事変が始まつたからといつて、さあ戦争文学だ、さあ愛国哲学だ、といつて騒ぎ廻る者ばかりでは困るであらう。かやうなことでは我が国の文化の真の進歩はあり得ない。今度の事変は、政府でもしはしば云つてゐる如く、決して突然に、また偶然に始まつたことではないのである。しかしインテリゲンチャはこれに対して用意されてゐたであらうか。
或る人は私に問うていつた、古来日本人には時間の持続の観念があるのであらうか、と。これは確かに我が国の全文化にとつて重要な問題であり、また銘々が自分自身において考へてみなければならぬ問題である。持続の観念がないならは、人格の堅持も、思想の操守もあり得ない。すべては単に瞬間的なことになる。個性は失はれ、文化もその時々の流れのままに動揺して、大きな組織は作られない。支配するのは流行だけである。持続の観念がないならば真の冷静といふこともあり得ないであらう。
支那事変は昨日今日に始まつたことではなく、また国民の堅忍持久を要求してゐる。更に重要なのは事変の後に来るものである。持続の観念がないといふことは日本の文化の特色であるにしても、それは今度のやうな大事件にあたつては、これに対する認識の仕方においても行動の仕方においても弱点を現はし易いのである。
この事変が我が国の文化に対して大きな影響を及ぼすであらうといふことは想像するに難くはない。かやうな大事件に際してなほ冷静であることが必要であるとすれば、それは何よりも今後に来るものに対して自己を十分に準備するためでなければならぬ。その準備に努めない者は冷静であるといつても実は冷淡であるのである。前線において流されつつある兵士の貴い血を思へば、冷静といふ口実のもとに冷淡であることは許されない筈である。
(十月十九日)