想像力と政治



 北支における日本の軍事行動は大いに進展して、その後の明朗化のための政治工作もまた進捗しつつあると報道されてゐる。軍事行動の後に来るものが軍事行動と同様に、或ひはむしろそれ以上に重大であることは云ふまでもない。
 ところで外国新聞の一記者は、日本は北支を占領しても政治的成功を収め得ない、なぜなら日本人にはイマジネーション(想像力)が欠けてゐるから、と評してゐる。我々はもちろんこの記者の言をそのまま受取り難い。軍事的に成功した日本は政治的にも成功しなければならず、また成功し得るものと信ずる。しかしそれにしても彼が日本の国民的性格を評したところはいはゆる他山の石として我々の反省を要求し得るものがあらうと思ふ。
 想像力に乏しいといふことは従来の日本人の一つの弱点である。日本の文学を見ても、豊かな想像力を示したものは極めて稀である。想像といへば単なる空想と同じやうに考へて排斥され、それの知的な性質、それの構想的な働きの意義は理解されないのがつねである。現実的であるといふことは日本人の著しい特徴であり、日本人ほど現実的なものはないとさへ云ふことができる。それは大きな長所には相違ないが、長所は同時に欠点であり得ることを考へねばならぬ。
 想像力は他人の心理を理解するために必要である。それはまた思考の地平を広くするためにも必要である。更にそれは創造的に構想するためにも必要である。そしてかやうな能力は政治にとつて必要なものである。例へば、日本人は外交が得意でないと云はれることにしても、想像力が乏しいために他の国民の心理の理解が行届かなかつたり、また国際世界といふものがつねに生々と頭の中に浮ばなかつたりすることに依るのではなからうか。世界といふものは全体として現実的に経験し得るものでなく、想像力が働かなければ生きたものとして捉へられないものである。
 近代社会の組織は次第にフィクショナル(擬制的)なものになつてゐる。土地のやうな現物に比して貨幣は擬制的なものであるが、社会の組織にかやうに擬制的なところが多くなつてゆく場合、政治にとつても想像力がいよいよ必要になつてくるのである。政治は肉弾戦とは違つた性質のものである。
 武力においてすぐれた日本は政治的才能においても今後大いに新しいものを発揮して、イマジネーションがないといふ批評を打ち破らなけれはならない。


(十月十二日)