事変と生活


 支那事変は文化の諸方面に種々の影響を及ぼしつつあるが、直接には大衆の生活に変化を与へつつある。必要は人間を賢明にする。この頃いはれてゐる生活の合理化もそれである。
 従来西洋カブレの、非日本的なものとせられてきたことがこの機会に次第に進出しつつあるのは生活の合理化の方向を考へる上において注目すべきことである。例えば、託児所、共同炊事などが追々現実的になりつつあるといふ。これらのことからも知られるやうに、婦人の労働戦線は拡大しつつあり、そのことが日常生活全般に最も大きな変化を及ぼす結果になるのである。
 もとより生活の合理化は単にいはゆる西洋化であり得ない。現に舶来品が来なくなると、これに代るものを日本で作ることが必要になり、また在来の日本的なものをもつてこれに代らしめることが必要になる。かやうなことは西洋的なものの日本化、日本的なものの西洋化の機会になる。そしてそれが実は日本の文化の恐らく唯一の健全な発展方向であつた筈である。
 この頃いはれる生活の合理化は物価騰貴その他によつて大衆に強要されつつあるものである。それは政府のいはゆる「消費節約」の現はれにほかならない。実質は同じことでも、消費節約といふ消極的なスローガンと生活の合理化といふ積極性のあるスローガンとでは国民に与へる心理的影響において差異がある。この点、官吏の智慧は遂に婦人雑誌の記者に及ばなかつた。政治も大衆の心理を捉へねばならぬ。そしてまた消費節約は生活の合理化を伴はなければ意味がないので、頻りに消費節約を唱へてゐる政府も、この際積極的に生活の合理化を指導すべきである。消費節約は旧い禁慾主義的道徳の範囲に止まつてゐてはならない。必要は発明の母である。この機会に生活の合理化の仕方がいろいろ発見され、日常生活の根柢から新しい日本が作られてゆくやうにしなければならぬ。
 尤も、この生活の合理化がいはゆる消費節約、従つて物価騰貴、物資欠乏等によつて強ひられてゐるものであるとすれば、必要は人間を賢明にするといつても、そこには限度のあることで、右のやうな経済的事情が一定の限度を越える場合には、消費節約はもはや如何なる生活の合理化としても現はれ得ず、却つて生活の非合理化を強要し、道徳的にも頽廃を生ずるに至るのは必然である。この点、政治家はもとより、生活の合理化の主唱者たちも深く考へなければならぬ。


                                (九月二十八日)