不運なオリンピック大会



 日支事変拡大のためにオリンピック東京大会における馬術競技に選手を送り得ないと陸軍が声明して以来、この大会の開催そのものまでが一部で問題にされるやうになつた。これに対し副島伯等は、国際信義の立場から飽くまで東京大会を遂行せねばならぬと主張してゐるやうである。根本に遡つて考へれば、もちろん、多大の犠牲を払うてまでオリンピック大会を日本に招致せねばならぬ必要があつたかどうか、疑問であつたであらう。しかしあの招致運動の当時における、そしていよいよ東京開催が決定した際における、あの熱狂振りを我々は忘れはしないであらう。何事にも熱し易く冷め易いといふ国民の弱点を現はすやうなことになつてばならぬ。
 一旦東京開催を引受けた以上、副島伯等の主張する如く、全責任をもつてこれを遂行することが国際信義の立場からいつて当然である。特に日支事変の勃発以来、国際的に極めてデリケートな関係におかれてゐる日本としてはその覚悟がますます大切なわけである。近年、日本を外国に認識させる必要があるとして、そのために種々の機関も設置され、多くの費用を使つてきたのであるとすれは、その必要が今日においてこそ増してゐる場合、オリンピック大会を返上するといふが如きことは、これまでのそのやうな努力を無にすることにもなるであらう。
 そのうへ、オリンピック大会は単にそれのみのことでなく、皇紀二千六百年を目差して、どんな国際大会をも日本に招致しようといつた風があり、すでに東京開催の決定してゐるものも一二に止まらないのであるが、それらの国際大会の上に及ぼす影響についても考慮しなければならぬ。
 国民体位の向上は国防上の見地からもその重要性が大いに強調されてゐる。もとより我々はオリンピック大会が国民体位の向上にとつて直接の効果を有するとは考へないが、しかし大会はスポーツに対する国民の関心と理解とを高めることに役立ち、間接にせよ国民保健の問題に資し得るものである。
 オリンピック大会の東京開催が決定した当時、私は本欄において、一九四〇年まで世界の平和が維持されるやうに努力することは、この大会を引受けた日本にとつて喜ばしい義務でなければならぬと述べたのであるが、今や支那側の無反省のために日支事変の拡大を見るに至つたことは甚だ遺憾である。まことに不運なオリンピック大会である。しかし日本としては飽くまでも、戦争に強い者は平和的事業においても強力であるといふことを全世界に向つて示さなけれはならないと思ふ。


(八月三十一日)