政党と文化運動



 皇紀二千六百年を目ざして新日本文化の建設を企てると称する日本文化中央聯盟では、文部省の補助金も決定したので、去る八日結成式を行ひ、やがて新秋には盛大な発会式を挙げる予定であるといはれてゐる。この聯盟の意図するやうな文化統制が真実の日本文化の発達に対して如何なる関係にあるかについては、既にしばしば論じたことであるから、ここに繰返さないであらう。この種の文化運動は実は政治運動に他ならないのである。
 ここで注意したいと思ふことは、近年次第に盛んになつてきたこの種の文化運動の主唱者もしくは指導者がたいてい退職官吏或ひは貴族であつて、政党人は殆ど関与してゐないといふ事実である。我々はそこに現代日本の政治の動向とその特質とを明瞭に認めることができるであらう。
 ドイツもしくはロシアの例を挙げるまでもなく、現代の政治運動において文化運動は極めて重要な役割を演じてゐる。しかるに日本の政党はかかる事実に無頓着であり、文化運動に対して甚だ無関心である。そこに、その今日の実質はともかくとして自由主義を伝統とする政党の弱点があるといへるであらう。文化人の匂ひのする人間は政党人の間に非常に少い。しかしそれは現在文化連動を起してゐる退職官吏や貴族においても全く同様である。従つて問題は文化運動についての認識の相違であり、そしてその難からいつても既成政党は日本の政治の指導力となり得ないのである。
 かやうな政党も先般大学生に働き掛けようと考へたのであるが、それも要するに選挙の時に投票を掻き集めようといふ目的以上のものを有したとは思へない。選挙の地盤と投票の獲得のことはかり気にしてゐるやうでは、政党の更生など到底期待できないであらう。
 自由主義の伝統に育つた政友会や民政党はともかく、社会大衆党の如きにおいても文化運動が軽視されてゐるやうに見えるのは不審であり、遺憾なことである。文化運動の現代政治運動にとつて有する意義については、この真の指導者たちには十分な認識がなけれはならぬ筈である。もし日本の文化運動が退職官吏や貴族の手によつて指導されることを欲しないならば、彼等の運動の目的に同意しないのであるならは、今日、社会大衆党は自己の文化運動を活溌に展開すべきであらう。


(八月十日)