世界教育会議



 東京帝大で開催される筈の世界教育会議も近づいてきた。この会議については、もし満洲国が参加するのならば自分たちは出席しないといふ支那代表者の横槍も出たが、それも結局満洲国参加といふことに決定したやうである。そしてそれは当然のことであつた。
 胡適氏らが満洲国の参加を拒否したのは、教育会議を徒らに政治化するものであつて、正しくない。なにもかも政治的に、徐りに政治的になつてゐる今日、教育会議の如きは政治と無関係に行はれるところに却つて意味があり、現在の世界の重苦しい政治的状態の中へ一陣の涼風を送り得るの感もせられるのである。
 しかし世界教育会議が政治に無関係でなけれはならぬといふことは、そこで政治が論じられてはならぬといふことではない。ただそこでは政治が政治の見地から論じられることなく、教育の見地から論じられることが大切である。今日、世界各国の教育は著しく政治に従属してゐる。かかる政治の教育に対する影響が検討され、そこから教育本来の精神において現実の政治に対する批判が行はれなけれはならない。政治と教育との関係の如き、現下の情勢から見て、世界教育会議の最も重要な論題であるべきであり、殊にその中のハーマン・ジョルダン委員会の如きはその精神からいつてもこれを問題にすべきであると思ふ。
 教育はもとより政治から完全に自由であり得ないであらう。教育が政治に制約されるのは当然であるにしても、政治と教育の精神とは必ずしも一致しない。政治は人間の本能や衝動に訴へることがつねに余りに多い、それ故に教育が政治に従属的になると、教育の意味は否定されてしまふ危険がある。政治に対する批判的力としての教育の意味が認識されねばならぬ、政治の力に対する教育の独自の力への信頼が今日の教育家から喪失しつつあるのではなからうか。
 世界聯合教育会の主要な目的は「教育事業において国際的協調をなし、国際的善意を涵養し、且つ世界的平和を助長する」ことに存するが、現在の情勢はその会議を世界の全く片隅の出来事にしてしまはうとしてゐる。かかる時代にも拘らず我々は東京におけるこの会議が有数に進行することを期待する。世界各国の教育家が相会することは相互の理解を深めることによつて国際親善に資し得ることは勿論、各人が自国の特色を正しく自覚する機会にもなるのである。日本に西洋模倣の弊があつたとすれば、それは日本人が余りに西洋人に接触したためでなく、反対にその接触の機会が余りに尠かつたためである。国際会議開催の意義は我が国において特別に大きいといはねばならぬ。


(七月二十日)