心の準備



 国民的感激の裡に成功したオリンピック大会東京招致も、その後の進展はあまり捗々しくなく、ファンをしていろいろ気を揉ませてゐるやうである。
 愚図ついてゐた演技場問題がやつと解決をみて、神宮外苑競技場を拡張して使用することに決定したが、外苑評議員会の委員中にはこの拡張に就き、境内において不適当と認められる行為に対し國體明徴の建前から種々の条件を附すべし、といふ「日本精神」の立場における強硬意見を唱へる者があり、成行きによつては大会に影響するところ少くない有様だと伝へられてゐる。即ち例えばオリンピック・ベルとか聖火の如き外国流のものは日本の國體にふさはしいものに改めよ等々の議論が起つてゐるとのことである。
 然るにもしかかる議論を徹底させてゆくならば、競技種目の中でも外国流のものは凡て排して我が国固有のものに変更せねばならぬことになり、かくて大会開催も結局不可能になつてしまはねばならぬ。オリンピックといふやうな西洋的なものを日本に招致したことがそもそも不都合なことだと云はねばならなくなるであらう。困つた話であるが、かかる議論がなかなか存在するところから考へると、いよいよ大会となつても遠来の客に対して不愉快を感じさせるやうな事柄がいろいろ生じて来はしないかと心配されるのである。
 かくの如き国粋論者はよろしく明治天皇の御精神を、ひいては明治の時代精神そのものを顧みるべきである。五箇条の御誓文等を拝誦してみるべきである。明治の時代精神はまことに博大な、進取的なものであつた。偏狭な国粋主義は先づ明治神宮外苑からこそ追ひ払はれねばならぬであらう。
 オリンピック大会を迎へるにあたつては単に物の準備だけでは足りない。心の準備が大切である。この心の準備といふのは国際的精神の向上にほかならない。もしも競技の、文化の国際性の観念が虚妄であるならは、オリンピック大会開催の如きは畢竟無意味であり、無駄でなければならぬ。
 オリンピック大会のことは別にしても、近来喧しくいはれてゐる国民体位の向上については、その精神がまた問題にされねばならない。単に準戦時体制 ― この語もあの非常時といふ謂はば日本固有の語がこの頃国際的意義を有する語に変つた例の一つと見られ得るものである ― といふ見地からでは国民体位の真の向上は期待されないのであつて、その根本には却つてもつと大きなヒューマニスティツクな精神が流れてゐなければならないのである。 


 (六月二十九日)