「新全体主義」



 自由主義の闘将といはれた鳩山一郎氏が今度外遊することになつた。氏の外遊は個人的心境に依るものであらうが、しかしその個人的心境のうちに時世がおのづから反映してゐないといふことは不可能である。
 自由主義政党であつた筈の民政党では今度「新全体主義」といふものを標榜するに至つた。そのいはゆる「新」が何を意味し、いかなる点でそれが全体主義と異るのであるか不明であるが、他に追随して後から全体主義を唱へ始めると見られることを嫌つて「新」といふ字を頭につけたに過ぎないと考へて恐らく間違ひないであらう。
 文壇や論壇では昨年あたりからいはゆる日本的なものについて盛んに論ぜられたのであるが、偶然の符合といふか、ちやうど近衛内閣が成立する頃からその議論も下火になつてきた。日本的なものについての議論が祭政一致を声明した林内閣の時代に起り、そしてこの内閣の退却と運命を共にしたやうに見えるのは、皮肉のやうでもあるが、全く偶然であるともいはれないであらう。
 近衛内閣は古典的な林内閣とは異り頗る現代的な声明をもつて現はれたのであるが、この内閣はいはゆる日本主義が、現代的な言葉で表はすと、実は全体主義に他ならないといふ一事を示すために現はれたやうなものである。極めて明瞭であるやうに見えて実は甚だ曖昧であつた日本主義といふ古典語は、今後恐らく次第に遠退いて、全体主義といふ現代語が一層前面に出てくるであらう。いづれにしても意味は同じである。かくして日本も要するに世界の一項としての日本にほかならず、日本固有のものといふものが論者のいふほど重要でないことがいよいよ明かになるであらう。
 ところが日本では今なほあらゆる外国品はハイカラでスマートなものとして好奇心をひいてゐるやうに、この全体主義といふ言葉も或る人々にはかなり魅力をもつてゐるのである。しかるにこの全体主義といふものが実質的には何であるか、それが大衆にはあまり有難いものではないといふことを誰の眼にも明かにするのは、多分現内閣の後に来るものであらう。それが物の順序である。
 しかし日本では、外国のファッシズムに追随しての全体主義と見られることを避けるために、新全体主義とでもいはれるかもしれないが、新とはこの場合ただ後から現はれたといふ意味であつて、性質上根本的に異るのではない。全体主義を超克した真の「日本的なもの」が出て世界をリードするやうなことが当分ありさうにもないことは、日本を真に愛する者にとつて淋しいことである。


      (六月二十二日)