文化の権威



 文士といへば、以前は、世間から変物扱ひされるのが普通であつた。この頃の文士にはそのやうな変物が次第に見当らなくなつた。単に文学者のみでない、学者、美術家、ジャーナリスト等、すべての文化人について同じことがいへるであらう。
 昔の文化人が世間的に変物であつたといふことは、彼等の思想や行動が非社会的であつた為めであると批評される。確かに彼等は非社会的であつたであらうが、その反面また彼等には自分の従事する仕事の権威についての自覚も強かつた。ジャーナリストにしても「無冠の帝王」といつた誇りをもつてゐたのである。我が国には古来藝術至上主義といふやうな思想は存しなかつたけれども、文化の権威についての自覚は十分にあつた。
 近年文化の社会性が強調されてゐるのは固より正当なことであり、それと共に文化人の間にいはゆる変物が少くなつたのも結構なことである。しかし同時に文化人の誇りといふものが失はれ、文化の権威についての自覚が稀薄になつたといふことがないであらうか。政治家や官吏の手先になつて働くことに矛盾を感ぜず、自分のもつてゐるのは実は全くの小吏根性であるにも拘らず、それが文化の社会性であるとでも考へてゐるやうに見える学者や藝術家が多くなりつつあるのは悲しむべきことである。
 かやうな傾向に反抗する為めに再び藝術至上主義の如きものを唱へる者も見られるが、それは間違ひであつて、主張され維持さるべきものは文化の権威である。文化の擁護も、単に文化の政治的自由の点からのみでなく、文化の権威の点から考へられねばならぬ。
 教育の方面では人格教育といふことが喧しくいはれ、安井文相も教育の方針は人間を作ることだと述べてゐる。それは固よりその通りであらうが、しかし今日教育家の間には小吏根性が浸潤し、文部省あたりの意志通りならまだしも、その意志以上にさへ極端なことをして忠勤振らうとするやうな、無性格な者が多くなつた教育界において、果して人格教育ができるであらうか。以前には教育家にもなかなか変物がゐたが、そのやうな人が却つて立派な人間を作つたのである。教育家も自分の仕事の権威について考へねばならぬ。すべて文化的な仕事の価値は十年や廿年で決定されるものではない。
 樽の中の哲人ディオゲネスとアレクサンドロス大王との話は、この社会的政治的時代においてもなほ顧みられるに足る教訓を含んでゐるのである。文化人の気魄は文化の権威についての自覚から生れる。


(六月十五日)