政治と宗教



 新内閣は各方面から一般に好感をもつて迎へられてゐるが、仏教界の期待もなかなか大きいやうである。近衛首相は伝教大師奉讃会会長等の地位にあり、また西本願寺、真宗高田派本山とも関係があり、特に大谷尊由氏の入閣は仏教界最初のこととして祝はれてゐる。 前内閣の標榜した祭政一致は神道的色彩が強く、ために何となく圧迫を感じてゐた仏教界であるから、この新内閣の成立を歓迎するのも当然であらう。尤も、近衛内閣が仏教のために実際に何を為し得るかは、問題である。第一、この内閣も永久に続くわけでなからうし、またこの内閣が今日の時代思潮をどれだけ転換させることができるかも、疑問である。
 仏教の振興は何よりも仏教家自身の責任でなけれはならぬ筈であるが、近年とかく政治に依頼するといふ風が見られる。かくの如き宗教の政治への従属は、宗教家が排斥するところの精神の物質への従属を示すものではなからうか。
 林前文相が祭政一致を唱へると祭政一致の研究会を起して、いかに仏教をこの思想と妥協させるかに苦心し、聖徳太子の御名において仏教と國體との調和を考へた仏教界は、安井新文相の楠公精神において更に別の新しい問題を与へられるであらう。
 宗教に対する我々の不満は、信仰を説く宗教そのものが近年甚だしく無信念になつてゐるといふことであり、この無信念は政治への宗教の際限のない妥協となつて現はれてゐる。
 今日の独裁政治が宗教にとつて有利なものでないことは、ソヴェトの宗教に対する態度は固より、ナチスの教会政策においても明瞭である。しかも宗教が政治的に統制され得るもの。でないことは、それらの国における宗教と教会との現状が示してゐる。日本宗教のうち最も平民的な日蓮や親鸞などの生涯の歴史にしても、宗教が政治的統制に対して決して軍に妥協的であつてはならぬことを教へてゐるであらう。
 仏教は、今日、政治と宗教との関係について根本的に考ふべき位置に置かれてゐる。この問題についての深い反省のうちに宗教が新たに生きる道がある。しかるに仏教思想界には誰一人この重要な問題について徹底的に考へようとする人が見出されないのである。

(六月八日)