官僚ディレッタンティズム



 民間の諸会社への官吏の売り込みに対する非難は既に久しいものであるにも拘らず、近年官僚政治の擡頭と共にますます増加の傾向にある。それは我が国になほ広く残存する「役得」の思想の延長とも見られ得るであらう。
 かやうな売り込みは、勿論、古手官吏のためであるばかりでなく、資本家も自己の利益の立場からそれに応じてゐるのである。そしてこの頃のやうに経済統制が喧しくなつてくると、民間会社に古手官吏が入つてゐるといふことは、統制にとつて便宜であるとも考へられるが、また反対に彼等が資本家のために国家の統制に対する防壁の役をなすといふことも考へられる。いづれにしても彼等を通じて資本家と官僚との狎れ合ひがこつそり生じ易いことは想像し得ることである。
 しかしそのやうな官吏が技術家である場合はまだしも弊害は尠い。彼等の地位を羨望して、内務省あたりの古手官吏があらゆる名の団体を組織し、地方の婦人や青年などから金を集め、自分がその団体の理事等に納まらうとする傾向があるとすれば、困つたものである。
 更に注目すべきことは、近頃各省で文化宣伝に関する事業が行はれると共に、或る人が「官僚ディレッタンティズム」と呼んでゐるやうな現象が生じてゐることである。例えば、政府の映画事業である。これは軍部でも、文部、鉄道、外務等の諸省でも行つてゐる。軍部では民間の映画会社を使つてただ監督するといふことが多いさうであるが、他の諸省では官吏がみづから事に当り、彼等のディレッタンティズムによつて害されることが少くないといはれてゐる。その結果、民衆にはちつとも面白くない写真が出来るだけでなく、「国辱的」といはれるやうなものさへ作られることになる。
 かやうなことは政府自身の仕事の場合のみのことではない。文化統制とか思想統制とかの声と共に次々に生れた半官半民 ― 形式上はさうでないにしても実質的にはさうであるものをも含めて ― の諸団体の仕事にも同様の官僚ディレッタンティズムの弊害が見られるやうである。たびたび問題を起した国辱映画の如きはその現はれの一端に過ぎないのであつて、同様のことは世間にあまり知られてゐないことのうちにも多いであらう。
 文化統制を行はうといふ場合にしても、民間の文化人を動かすのでなければ何事も成就されないのであつて、独善は禁物である。


(六月六日)