大衆との距離
統制の目的は統一であり、統一は強化を意味する。これはもちろん統制の理想的な定義で、実際においては統制は強化とは反対に萎縮を結果することが多い。統制は自然に生ずる統一でなく、外部から強制される統一である故である。外部からの強制によつて萎縮が生じないためには、統制される側の者が自由主義的訓練を経てゐなけれはならないのであつて、この訓練の不足してゐる場合統制が萎縮を齎すのみであることは現に我々の目撃する通りである。かくてわが国においては統制と自由主義的訓練とが共に必要であるといふディレンマが存在する。
外部から強制される統一によつて国民が萎縮しないためには、統制する側においてはつきりした指導精神を持つてゐることが必要であるのはいふまでもない。しかし単に思想があるといふのみでなく、その思想が国民に十分納得できるものであることが必要である。それが自分に納得できるものであるならば、外部からの強制も単に外部のものとは感ぜられず、却つて自分が自分自身に与へる統制と考へられ、その場合統制はもはや統制でなく大衆の積極的な意志を意味するのであつて、かくてこそ初めて統制は強化となり得るのである。
自分等がこんなに真剣にやつてゐるのに国民がついて来ないといふのは怪しからん、といふやうな言葉をしばしば聞かされるのであるが、それは国民が真剣でないからではない。今の時代に誰が真剣にならないことができよう。誰もみな真剣になりたいのである。それだのに真剣でないやうに見えるのは、大衆が納得し感激し得るやうな指導精神も政策も与へられてゐないからである。林内閣の一枚看板といはれる文教審議会の委員の顔解れを見ても、あまりに古典的な存在で大衆には何の感興も生じないではないか。
政府の超然主義乃至独善主義に対する政党の批評は正しいであらう。しかし国民が政党に満足しないのは、革新を標榜する政府から「現状維持」派と呼ばれる政党も、政権を得ればこの「革新的」な政府と全く同様のことをするであらうと考へるからである。批評のための批評は十九世紀のものである。それは自由主義と多元論とを前提する。自由主義と共に批評の機能も変化し、批評は創造的な批評にならねばならぬ。言ひ換へると、政党は政府に対する批評と一緒に積極的な政策を掲げて起たねばならぬ。
統制も批評も自己の限界が何処にあるかを考へないといふことが今日の政治の憂鬱の原因である。そしてその限界は大衆との距離にある。
(五月二十五日)