精 神 家

 林首相は非常な精神家である。誰もそれを疑はないであらう。林首相は口を開けば必ず誠心誠意国政に当るといひ、また他に対して誠心誠意国事に尽すべきことを説く。とりわけ文部大臣には精神家が求められ、また近く設置される筈の文教審議会委員にも同様に精神家が求められてゐる。精神家に対する需要は絶対的であると見える。
 さすが日本は東海の君子国といはれるだけあつて、精神家にはつねに事欠かないのである。しかるにかやうに無数の精神家の存在するところでは、精神家を探すことが却つて困難であるといふパラドックスが生じる。現に、俗間の噂に依れば、自薦他薦の文部大臣候補者が、言ひ換へると最上級の「精神家」が、総選挙前には六十幾人とかあり、そいて現在では八十幾人とかに殖えたとのことであるが、それにも拘らず一向文部大臣が決定しないところを見ると、精神家の中で精神家を探すことの困難が思はれるのである。
 ポール・ヴァレリイは、政治とは擬制(フィクション)であると云つてゐる。擬制といふのはおよそ精神家とは反対のものである。政治は擬制として何よりも技術でなけれはならないが、精神家は技術を軽蔑するといふことを特色としてゐる。技術はディレッタンティズムに対立する。しかるに政治領域のうち思想や教育に関することほどディレッタントの手で害はれ易いものはない。現に無数の文部大臣候補者が存在するといふことは、誰もが思想の問題だけはわかると自信する悪しきディレッタンティズムを示してゐる。精神家は本質的に主観主義者として自信家であることを特色とするのである。
 擬制である政治をして支配せしめるためには大衆の心理を掴むことが必要であらう。しかるに精神家は最もしばしば独善家であり、大衆の心理を理解しないのがつねである。まさに、精神家、精神を知らず、といはねばならぬ。そのうへ、大衆が彼から離れれば離れるほどますます「精神的」になるといふのが精神家の特色である。そのとき彼は自分の自信を失ふまいとしていよいよ独善的になつて来る。
 政治に対して懐疑的なヴァレリイは云つた、「あらゆる政治は利害関係を有する者の大部分の無関心を基礎としてゐる、この無関心なしには政治は可能でない」と。今日の内閣が存在し続けてゐるのは大衆の無関心に基くのであらうか。だが大衆はまさに政治に利害関係を有する者としていつまでも無関心ではゐられないであらう。それとも精神家的政治家はすべての国民が物質的生活のことなどは全く問題にしない純粋な精神家になることを要求してゐるのであらうか。

 (五月十八日)