国民歌謡

 ドイツ人の好きなものが二つある、ギリシアと音楽とがそれだ。今日のナチスもこの二つのものを巧に利用してゐる。ヒトラーはギリシア人を引合ひに出すことを忘れない。永遠の文化を作り得るのはアーリア人のみで、アーリア人のうち最も純粋なもの、ヘレニズムの真の相続人はドイツ人であるといふ。ドイツ人の天才を認めても好い音楽はもつと盛んに利用されてゐる。ナチスが政権を掌握した一九三三年の選挙戦はまるで音楽の洪水であつた。ヒトラーは極めて劇場的な雄弁家であるが、彼の演説は各瞬間にオーケストラの協力を求めてゐる。突撃隊の唱歌なしにはヒトラー主義とは何物でもないといはれるほどである。
 ナチス張りの文化統制への歩武を進めつつあるやうに見える我が国においても、この頃、国民歌謡といふものが作られ、ラヂオを通じて宣伝されたが、これけ一向普及するに至らないやうである。いつも巷に氾濫してゐるのは『あゝそれなのに』といつた種類の歌で、日本には文化統制が行はれてゐると考へてこの国へ来た外国人は、それらの流行歌を日本の国民歌謡と誤解するかも知れない。国民歌謡とは何よりも国民に愛される歌謡であり、音楽として優れたものでなけれはならないのであつて、単に国民主義的イデオロギーを盛つたもののことではない。流行歌の撲滅のために、小学校における音楽教育の向上をはかるといふのは立派な意見であるが、それがほんとに実現すれば今日のいはゆる国民歌謡も一緒に撲滅されてしまふであらう。 流行歌が頽廃的であるとはよくいはれることである。しかし頽廃的であるのは近年の流行歌に限らないので、一部の人がこれこそ国民歌謡であるといふかも知れない浪花節や詩吟などの調子の基礎にも何か頽廃的なものがあるやうに感じられる。軍歌においてさへセンチメンタルな哀調が著しいことはいつか川端康成氏も指摘してゐた通りである。文句さへ勇壮活溌であれば好いといふわけでなく、音楽そのものの、従つてまた感情の性質が問題なのである。
 日本文化の根柢に或る頽廃的な感情が横たはつてゐるのは注意すべきことで、その原因としては封建的なものの残存その他種々のことを挙げ得るであらうが、文化の年齢といふことも考へてみなければならぬ。日本文化はヨーロッパ諸国の文化に比して遥かに古い文化なのである。これが若返るには外国文化と接解する必要があるのであつて、この頃の青年の西洋音楽愛好などもその意味で健全な傾向として歓迎すべきことである。かやうな教養の基礎の上に日本主義的イデオロギーとは別に真の国民歌謡が生れるであらう。


(五月十一日)