政治と説教

 政治が次第に説教に化してくる。思想が尽き、論理が窮まるとき、説教が始まるといふのが世の常である。
 林祭政一致内閣は組閣の当初から説教が好きであつた。議会解散の理由とされるものも説教であつたが、選挙に対して掲げられた政府の標語もすべて説教である。説教することが悪いといふのではない。素撲な道徳的感情に訴へることによつて政治的意見の対立を蔽ひ隠さうとするやうなことがあつてはならないのである。「滅私奉公の士」であるからとて意見が同じであるわけではなからう。むしろ私心ある者こそ容易に妥協し、追随し、阿諛するのが普通である。
 林首相は、来るべき選挙において「正しい人物が選出され、野に遺賢なからしめるやうに」希望してゐる。これもまことに立派な説教である。ただ恨むらくは、国民に向つて説教するに先立ち政府みづから野に遺賢を尋ねて欠員中の大臣を補充し、国民に範を垂れなかつたといふことである。
 歴史の実証するやうに、賢者といふものは時の政府や権力者に尾を振つてついてゆくものではない。だから賢者はたいてい野にあるものと決つてゐるのである。野に遺賢なからしめようと欲する者は、反対者の声に聴いて政治を行ふ覚悟がなけれはならない。反対者の立場を強圧してゐる限り、賢者はますます野に隠れることになつてしまふのである。
 反対者の眼はつねに鋭い。反対者の批判を怖れず、反対者から学ぶことを知つてゐる者が真の賢者であらう。ところが説教といふものは反対者の立場の含む「認識」を抹殺するために用ひられることが多いのである。反対者を沈黙させるために説教するのでなく、私を滅して反対者の立場を認めることこそ、今日の政治に必要な道徳である。説教を認識に取換へることが政治の進歩である。
 野に遺賢なからしめるといふ古典的な政治道徳は、大衆の政治意識が低かつた時代のものである。それを今日の言葉に翻訳すれば、大衆の声に聴いて政治を行ふといふことになる。大衆をして自由に語らしめる用意がつねにあるならば野に遺賢はない筈である。選挙の結果の発表日に当るといふ理由でメーデーを禁止した政府が野に遺賢なからしめるなどと言ひ得るであらうか。

 (四月十三日)