大道廃有仁義

 キリスト教は如何にして日本精神と一致し得るかがしばしば問題になつてゐるが、この頃では国学者平田篤胤がキリスト教の影響のもとに日本神話を解釈した説を逆用して、日本精神とキリスト教との調和を唱へる者さへ出てゐる。キリスト教神学者の仕事もいよいよ煩瑣哲学的になつてきたが、老子のいはゆる慧智出でて大偽ありの類とならねば幸ひである。
 先達て同志社大学においては、六十年の伝統を誇る建学精神新島イズムから日本主義へ教育方針を転換するに至つたのであるが、最近これに勢ひを得た国粋派教授は同学の一教授三助教授の思想が新教育綱領に反するといふ理由をもつて、その罷免を総長に上申し、ために学校騒動の危機を孕むと伝へられてゐる。
 個人的な感情の縺れとか派閥の争ひとかに日本主義が利用されることを余りにしばしば見聞してゐる我々は、今度この問題についても、その実体を究めた上でないと、公正に判断できないわけである。日本主義を他の目的のために利用するのは日本主義に対する侮辱である。しかし仮りにこの事件が愛国心とか愛校心とかの道義心から発したものであるとしても、いつたい何が日本精神に反することであるかは簡単に決定し得ることでない。我々は老子のいはゆる大道すたれて仁義ありといふことを近年絶えず痛感してゐる次第である。
 平田篤胤は『古道大意』の中で老子のこの言葉を引いて我が国の古道即ち真の日本精神が何であるかを説明してゐる。平田によると、真の日本精神は老子のいふ大道であつて仁義でない、それは事実の上に具つて有るものであつて、教訓とか道徳とかといふものではない。それを道徳化したり教訓化したりすることは却つて真の日本精神を失ふことになるのである。平田の哲学には教へられるところが尠くないのであるが、この説など特に国粋主義者の猛省を促すに足るものであると思ふ。神ながらの道は事実であつていはゆる道徳ではない。今日それを徒らに規範化し煩瑣哲学化することによつて他人を貶しめ、世の中をとかく面倒にしたがる者に果して真の日本精神があるといへるであらうか。
 教育の大道がすたれて教育は仁義化され、学問の大道がすたれて学問は道徳化される。近年喧しい「日本精神」はすでに末世の産物であり、末世の象徴であるのであらうか。

(三月三十日)