世界の鏡

 社会は自分を見る鏡である。この鏡に自分を写してみることによつて我々は自分を知ることができる。同じやうに、世界の鏡に日本を写してみることによつて我々は自国を知ることができるのである。
 最近ルックス・フィルム会社製作中の映画「吉原」が問題を起してゐる。会社側ではその筋は決して侮日的のものでないと弁明してゐるのに対し、内務省では「問題は筋そのものよりも現代の日本が吉原や人力車によつて代表されることにある」と云つてゐる。ところが、もしこのやうに云ふならは、あの「新しき土」にしても、現代の日本があれで代表されては困るといふ意見をいくらも出すことができるであらう。
 西洋人が日本を訪ねて来ると、歌舞伎や能へ案内すると共に吉原へ案内する。それが殆ど公式になつてゐるとすれは、映画「吉原」に抗議するのは矛盾でないかとも云へるであらう。オリンピック東京大会を控へて改善すべきことはここにもある。
 それのみでなく、日本主義者のうちには吉原讃美論者がなかなか多いことに注意しなければならぬ。
 例えばこの方面で有名な紀平正美博士は、日本精神の本質は「つとめ」にあるとしてゐるが、その際博士は、私娼は西洋模倣の個人主義であり、公娼は日本固有の家族主義であると見ると共に、「つとめ」の論理の立場から郭を支持してゐる。博士によると、公娼は単なる犠牲として社会の暗黒面を現はすのでなく、郭内における「つとめの身」として一定の積極性を現はすものである。「今日此の精神によつて更に改造せらるるならば、社会制度としてこれほどよきものはないであらう」と博士は云ふ。「つとめ」のこの積極性こそ、実にまたあの爆弾三勇士の精神であると博士は附け加へて論じてゐる。これが他ならぬ文部省の国民精神文化研究所の所員として思想善導の任に当つてゐる紀平博士の「哲学的」見解なのである。
 映画「吉原」に抗議する官憲はかやうな「侮日的」思想の国内における宣伝に対して矛盾を感じないのであらうか。
 外国映画に写してみれは、誰も「吉原」に侮辱を感じる。幸か不幸か、思想は吉原の如く映画として形象化されることはできないが、今日、日本精神とか日本主義とかいつて宣伝されてゐる思想の中には、世界の鏡に写してみるとき、日本人の誰もが「侮日的」と感じるかも知れないやうなものが存しないのであるか、反省を要するのである。


(三月十六日)