強国日本

 日本は世界の強国である。これは我々の大きな誇りだ。強国日本の我々には世界の大国民としての資格が必要である。明治大正の時代にはその資格について種々反省されたものだが、然るに近年躍進日本などと云はれる反面、何事もけちくさくなるやうに思はれるのは、どうしたことであらうか。
 強国とは世界史の聯関の中における勢力を意味してゐる。強国日本にとつて政治とは外交であると云つてもよいほどなのであるが、このとき外務大臣の払底がますます激しく感ぜられるのは、強国の資格上まことに困つたことである。
 思想や文化の方面においても、この頃は何でも「日本的」といふ限定詞を附けて考へることになつてゐるが、これもやめることができないものであらうか。ファッシズムはファッシズムであつて、イタリー主義とは呼はれない。それは国民社会主義といふ世界的な名称をもつてゐて、ドイツ主義と呼ばなくても済む。かやうなものである故にファッシズムは現在、善いにせよ悪いにせよ、一つの思想原理として世界的になつてゐるのである。それはわが国にも影響して日本主義を発生せしめた。日本主義は独特のものであるとしても、それがただ「日本主義」と呼ばれ得るのみで、世界的な名称で呼び換へ得るやうな普遍的内容を有しないとすれば、それは逆に世界へ進出し得る思想とはならない。日本精神とか日本主義とかが「日本」といふ限定詞を除いて世界の諸国が理解でき、同意でき、模倣できる内容を有するとき、日本は思想上においても強国である。
 嘗て支那思想は日本へ来て日本的になつた。それが日本に移植されて日本の文化を発展せしめ得た限り、それは単に支那的でなく、少くとも東洋的であつた。ところがそれが一旦日本的なものになると、逆に東洋へ進出し得るやうな性格を失ふといふ傾向がなかつたであらうか。東洋的なもの、世界的なものが日本へ来て特殊化され、個別化されるのは当然である。しかし日本的なものの世界性は真実に求められたことがあるであらうか。個別化されることは或る意味では完成されることである。けれども完成すると共に普遍性が乏しくなるといふことが日本的性格であるとすれば、考へ直さねばならぬ。
 今日、日支関係の行詰りを打開するには、先づ文化提携から始めねばならぬといふ意見も出てゐるが、それが可能になるためには「日本」といふ限定詞を附けないで済むやうな思想が日本に現はれて来なければならぬ。


(三月二日)