家族観の混乱

 ファンク博士の日本紹介の映画「新しき土」では、日本の家族主義が勝つて西洋の個人主義が負けることになつてゐる。日本の家族主義はよいとしても、西洋にだつて今ごろ単純に個人主義を唱へてみる国はなからうではないか。西洋においても既にずつと以前から個人主義の弊害は指摘され、これを克服すべき思想が現はれてをり、他方日本においても家族主義は種々の矛盾を現実に示しつつあるのである。
 家族を重んずることと家族主義を守ることとは同じでない。家族主義は封建的なものである。家族主義の封建的性質を打破するものとして個人主義にも意味があつた。しかし個人主義が家族そのものをも破壊してしまふ危険を有するとすれば、これに反対するのは当然であるが、その際家族を護ることは家族主義に還ることでなく、寧ろ家族に新しい社会性を持たせることでなければならぬ。家族主義的な日本の家族生活に欠けてゐるのは社会性である。
 この社会性といふ言葉を先づ簡単に社交性といふ言葉に置き換へてみるが好い。日本の家族生活には社交性が乏しいのである。一家族の内部において社交性が欠けてゐるのみでなく、一の家族と他の家族との間の関係も多くはなほ封建的儀礼的であつて、真に社交的でない。青年男女の堕落が家庭内並びに各家庭間における社交性の欠乏から生じてゐるものが尠くないことはしばしば云はれる通りである。
 家族は一つの団体として社会的訓練の場所である。我が国民の生活に社会道徳が欠けてゐるといはれるのも、個人主義の結果でなく、寧ろ家庭がなほ多く家族主義的であつて、今日の社会に適した道徳的訓練を準備し得ないといふことに一つの原因がある。特に街の社交機関、カフェーや喫茶店の無秩序と頽廃との主なる理由はそこにある。家族主義的な家庭における我儘を社会へそのまま持ち込まれるのも困るし、またその窮屈を社会で存分晴らさうとされるのも迷惑である。
 家族の社会性は強調されねばならぬが、しかしまた家族と「社会」とは同じでない。いはゆる新しい婦人の家族観には家族を社会と同じに見ることにおいて間違つてゐるものが多いのではないかと思ふ。それは家庭生活に対して個人主義と同様破壊的である。個人が社会的に規定されてゐることは事実であるが、個人をただ社会的にのみ見ることが正しくないやうに、家族も社会的に制約されてゐることは明かであるにしても、家族が社会的結合として有する特殊性を無視することは許されない。いはゆる新しい結婚論、家族論には、今日の社会を家族主義で律しようとする考へ方が陥つてゐるのと同じ種類の誤謬に、反対の方向において、陥つてゐるものが尠くないやうに思ふ。
 家族観の混乱は現代の大きな不幸の一つである。


(二月二十三日)