日本精神の限定

 林内閣が発表した五大政綱は、当然のことを当然言つたまでで、問題はこれを諸般の政策において如何に具現するかにある、と政党方面では批評してゐる。しかし仔細に点検すると、この政綱そのものにもやはり見遁せない特色がある。
 國體明徴は従来の内閣とてもしばしは声明した重要政綱であるが、今度は進んで「祭政一致の精神の発揚」を高唱してゐることが注目される。これは従来ただ「日本精神の作興」といつてゐたものを限定したと見られることができ、いはゆる「我邦の独特なる立憲政治」に対する説明も、そこに求めらるべきものであらう。復古主義の色彩はいよいよ濃厚である。
 立憲政治に関することは措くとしても、日本精神がかくの如く祭政一致の精神として限定されたといふことは、先づ宗教界に深刻な問題を投ずるであらう。祭政一致の思想は明かに神道的である。従来も神道的日本主義の立場から仏教やキリスト教が排撃されたことは稀でないが、ここに更めて政府が日本精神を祭政一致の精神と解釈したといふことは、かくの如き排撃に公然の理由と動機とを与へることになりはしないか。これまで仏教家やキリスト者は日本精神に対し何とか解釈を施して時世に順応乃至追随してきたのであるが、今やその日本精神は政府の手で彼等の解釈の限度を越える程度において神道的に規定されるに至つたのではなからうか。
 日本精神の作興自体は反対さるべきことではない。問題はつねにその日本精神を如何に考へるかといふことであつた。そしてそれは学者や思想家によつて、或ひは儒教的に、或ひは仏教的に、或ひは復古的に、或ひは発展的に、種々解釈されてきたのであるが、今や政治的にその唯一の方向が明示されることになつた。何人ももはや政治の優位に対して盲目であり得ないであらう。
 我々は政治の優位を率直に承認しよう。しかし同時に我々は対内政治に対する対外政治の優位を考へる。日本精神をかくの如く復古的に、余りに復古的に限定するといふことは、他の多くの点はここで問はないにしても、すでに除りに対内的な立場に囚はれたものでないか。単に日本から日本を見るのでなく、世界のうちにおいて日本を見ることが外交には必要であるやうに、日本精神もこの立場から限定することが大切であらう。林首相が文部大臣と外務大臣とを兼摂してゐるといふことも、従来単に日本から日本を見る立場において考へられた独善的な日本精神論に対して、世界のうちに日本を見る立場を強調する場合、意味を有し得るのである。しかるに却つて反対の結果になつてゐるとすれば、それは日本精神の問題に止まらず、実に対外政治の問題にとつて注目すべきことである。


(二月九日)