強力内閣

 近年政治上の合言葉として繰返されるものの一つに「強力内閣」といふ言葉がある。誰もがみな強力内閣の出現を希望してゐるやうに見える。けれども今日の社会では一致して唱へられることもその意味が分裂してゐるといふのが普通である。
 現在、強力内閣の出来る可能性があるかどうかが、すでに問題であらう。衆目の見るところ、宇垣大将はともかく強力内閣を作るに適任者であつた。その宇垣大将が挫折した。今度の林大将は中途で組閣方針を変更したと伝へられるが、これも強力内閣からの一種の後退と見られるであらう。かやうな事実は、日本の政治的現実のうちに、その支配的勢力のうちに、強力内閣の成立すべき条件が未だ十分に備はつてゐないことを示してゐる。
 その出現の可能性は別問題としても、強力内閣なるものの意味が実は甚だ不明瞭なのである。野蛮人は文明人よりも強力であり得る。間違つた信念は正しい道理よりも強力であり得る。この非常時には何事も断行する力が必要だといはれるであらう。それに相違ないが、しかし間違つたことは断行されるよりもされぬ方が善いのである。強力そのものは質的規定を含まない。何について、如何なる方向において、強力であるかが問題である。
 例へば外交の一元化は強力内閣でなければできないといふ。だが如何なる方向に一元化されるかが我々には問題だ。庶政一新は強力内閣を必要とする。しかし「庶政一新」といふ語は強力内閣といふ語と同様抽象的だ。或る者は二・二六事件以後現はれた政治的動向の強化のために、他の者は反対にこの動向を抑止するために強力内閣を求めてゐるとすれば、その意味は全く別のものである。また前の場合にもその行先は何処であるのか国民には示されてゐないし、後の場合にもそれを何処へ持つてゆかうとするのか明かでない。
 いづれにせよ大衆の支持をもたぬ内閣は真に強力であることができぬ。大衆を納得させるには公明な政治を行ふ必要がある。「不言実行」といふ言葉は強力を思はせるために慣用されるが、それが無策無方針と同意味であつたり、秘密政治の別名であつたり、要するに政治の公明性に反するものであり得ることは、我々のしばしば経験せるところである。単なる強力でなく、公明な政治が要求されてゐるのだ。公明な政治は道理に基かねばならぬ。道理ほど公明なものはない。しかるにただ強圧的であれはあるほど強力であるかのやうに感ずるといふことは心理的にも生じ易い幻想である。

 (二月二日)