命令と指導

 私の印象に残る宇垣氏は、嘗て私が一兵卒として姫路に入営してゐた頃、我等の師団長であつた宇垣中将である。馬に跨つて練兵場に立つた堂々たる師団長閣下が今も眼に浮んでくる。
 だが軍隊では宇垣閣下でも、政治家としては宇垣氏である。軍隊では寺内閣下でも、議会では寺内君と呼ばれる。民間の宴会、それも結婚披露か何かで、「閣下及び諸君!」と呼び掛けて挨拶されると席が急に冷くなるのを感じる。「閣下及び諸君!」では第一、語呂が悪い。招待した方でも客に甲乙があつてはならない筈である。ヨーロッパではドイツが特にこの敬称をやかましく云ふやうだが、我々日本人がそれを真似る必要もあるまい。
 称呼のことはどうでもよいが、「閣下」と「君」との相違は、政治は単なる命令でないことを意味する。政治において国民は単に服従する者でなく、却つて協力する者である。真の挙国一致は単なる号令によつて実現され得るものでない。そこに「閣下政治家」の陥り易い誤謬がある。
 政治に民主性を求めることは既成政党を認めることと同じでない。既成政党が果して国民の意志を代表するか、疑問である。政治の民主性に対する要求は議会政治の単なる擁護と同じでないであらう。しかし政治は命令ではない、命令でなくて指導でなければならぬ。指導はつねに国民の納得を必要とするのである。
 今度の政変は議会における軍部と政党との対立から生じたといはれる。だがもし議会における持論が単に大臣と若干の議員との間のものでなく、国民の前で国民に対して行はれるものであるといふ考へがあつたならは、今度のやうなことにはならなかつれであらう。議会はそれを通じて国民を指導する所でなければならぬ。
 政治の民主性は自由主義とは同じでなく、命令政治でない指導政治こそ民主性を必要とする。今日のいはゆる全体主義は、国民から抽象された「国家」といふものが何かあるかのやうな幻想に陥つてゐはしないか。要求されるのは民主性を有する指導政治である。
 新たに期待される内閣は軍部政党等の摩擦をなくすべきものであるといはれてゐる。しかし軍に諸勢力の摩擦を防がうとするばかりの内閣が役に立たないことは、既に前三代の内閣によつて証明済みだ。我々は真の指導的政治家を待望する。嘗て我等の師団長閣下であつた宇垣氏の組閣振りを先づ拝見しよう。                     


(一月二十六日)