新生活運動

 今年は喪中で年始の挨拶を遠慮したが、それでも思ひ掛けない人からだいぶ年賀状を貰つた。一般に年賀状の数は毎年増加してゐるとのことである。これはむろん、単に好景気不景気の反映といふものでなく、民衆の或る一定の生活意識の発達の表現と見らるべきものである。そこに現はれた生活意識が西洋的であるか日本的であるかといふやうな議論は、今日では意味がなくなつてゐる。
 年始状にまじつて私は「えすぷり団」設立趣意書といふものを受取つた。この団体の実際、その主唱者等について私は何の知識も持たないが、宣言によると、真に人間的な新文化及び本格的な藝術の誕生のために、その土台となるべき生活並びに生活雰囲気の革新を行はうといふ青年藝術家の運動であるとのことだ。そのプログラムを見ると、住居、服装、料理、話術、礼儀、恋愛について現代の風俗を批評し、藝術家の生活、交際、対社会的行動について若干の方針を掲げてゐる。
 私は今このプログラムを問題にしようとは思はない。ともかく、藝術を志す青年の間から、現在わが国の「一般の悪風俗へ勇敢に挑戦」して新しい生活を建てようとする運動が現はれてきたことに興味を感じるのである。明治大正の頃には日本の社会にも種々の新生活運動が活溌に行はれた。藝術家に関係のあるものでも、あの青鞜派の運動なビ社会的影響が大きかつたし、武者小路氏の新しい村の如きも新生活運動として世間に知られたものであつた。今日新たにかやうな運動が起るといふことは、ヒューマニズムの擡頭とも関聯して意味のないことでない。新藝術運動が新生活運動と結び附いて現はれねばならぬ理由は、藝術そのものの立場からいつても、十分に存在するのである。
 新生活連動はもとより単に藝術家に関することではない。それは社会のあらゆる方面において必要である。現在、非常時の重圧のもとに、民衆の生活意志の萎縮、生活意識の矮小化が見られないでない。逞しい生活意志、新しい生活意識の昂揚は文化反動、文化危機と闘ふためにも重要な意味をもつてゐる。
 この歴史的時代に日常生活の改善の如きは大した問題でないといはれるであらう。しかし政治運動のみが運動であるのでない。政治上、科学上、藝術上の大事件、大事業のみが「歴史的」であるのではない。我々の日常生活も歴史的なもの、創造的なものである。それはいはゆる歴史的な事件や事業の地盤であるばかりでなく、そのものが実に歴史であり、歴史を作つてゆくのである。


(一九三七年一月五日)