ドイツ的偏向

 最近、東京の町の人の間に英語研究熱が起つてゐるといふことである。これは予定されるオリンピック大会東京開催の一産物である。日本主義の立場から外国語学習の有害無益を唱へて、英語教授を廃止した学校もあつたが、必要はすべてを決定するものだ。今度の日独協定の結果ドイツ語の研究が案外盛んになるやうなことがあるかも知れない。
 さなくとも、この頃の政府の統制政策を見てゐると、独創性がなく、ドイツ模倣の傾向が著しいと批評する者がある。もしそれが事実であるとすれば、日本民族の名誉のために改めねはならぬことであらう。我が国の大学の学問などにおいてもドイツ的偏向が見られるとすれは、そこで教育されてくる官僚のドイツ模倣は考へ得ることである。
 近年、我が国の知識階級はファナティックな思想のほか歓迎しないといふ傾向がある。ファッショ的統制主義或ひは独裁思想もこれである。しかし元来、日本人がファナチィツクな国民であるかといへば、寧ろその反対であらう。知識人がファナチィツクであるといふことは、日本にはまだほんとに知識の伝統が存しない兆しであるともいへる。殊にドイツ思想の影響はファナティシズムに導き易い傾向をもつてゐるのである。だがドイツ模倣的なファナティシズムが果して窮極において日本の民衆に共鳴され、納得されるかどうか、甚だ疑問である。
 現実的であつて、ファナティツクでない点において、日本人はドイツ人よりも寧ろイギリス人に似てゐる。もちろん日本人は単に実際的で常識的であるとはいへない。しかしアングロサグソン人にしても決して単に実際的で常識的であるのではない。彼等のうちには清教徒の精神がある。自由と平和とを求めて新大陸を開拓したのはその清教徒であつた。今度のエドワード八世陛下の御結婚に関する事件の如きも、実際的で常識的だといふイギリス人についての一面の観念を打ち破つて、彼等が遙かに深い心を有する大国民であることを表示したものと見られるであらう。
 我々はもとよりアングロサクソン人ではない。私は彼等と同様にドイツ人を尊敬する。けれども我々のドイツ的偏向については大いに反省しなけれはならぬ。我が国の知識人には、もつと弾力のある、従つて真に批評的な知性が必要だ。ダーウィンのやうな人はドイツ人の間からは出て来ない。アングロサグソン的天才がこの時代に社会政治思想においてもはや何等新しいものをもたらし得ないとは断言し得ないであらう。


(十二月八日)