歴史の弁証法
日独協定の成立は、ともかく、今日においては思想のない政治はあり得ないといふことを実証した。それは政治を単なる事務、取引とさへ考へた従来の政治家に対して歴史が強制的に与へた重要な教訓である。
これまで日本主義者は、日本主義乃至日本精神はコンミュニズムはもちろん、ファッシズムでもない独自の思想であると主張してきた。更に彼等は、この日本精神をもつて東亜はもとより、全世界をさへ光被し得るとの雄大な抱負を述べてきた。然るに今や、彼等の主張も、彼等の抱負も、彼等自身によつてでないといふのであれば、他の何者かによつて、ともかく、裏切られるに至つたのではなからうか。
日独協定の成立は、日本主義乃至日本精神と称するものがそれほど独自なものでないといふこと、少くともファッシズムに対して独自性を主張し得る程のものでないといふことを示したやうに見える。日本精神が特殊性を有することは疑ひないとしても、その普遍的な、国際的な、世界史的な意味内容においてはファッシズムと別のものでないことが明かになつたやうに思はれる。ドイツとの提携はファッシズムとの握手でないといふが如き詭弁を世界は真面目に信じないであらう。かくして今後は日本精神の独自性といふことも単に対内政策上の意味に止まらねばならなくなる。この際我々は日本主義者のために、彼等の従来の主張や抱負に鑑みて、日本精神の独自性を対外的にも実証することをいよいよ希望せざるを得ないのである。
一国がコンミュニズムを探るかファッシズムを探るかは国内的問題であつて他国の関することでないといふやうな自由主義的考へ方は、もはや非現実的となつた。国民主義を標榜するファッシズムにしても、世界的ブロックを形成するといふのが現代である。
ところで将来の歴史を作るものは果してファッシズムであるか、それともコンミュニズムであるか、もしくは或る「第三の思想」であるか。第三の思想といつても、抽象的に第三のものであり得ないのはもちろん、二者の折衷でもなく、却つて対立する二者の一つが自己を発展させることによつて新しいものに転態した形として現はれるものであらう。それとも第三の思想は空想に止まるか。ファッシズムとコンミュニズムとの世界的な闘争は今後何を結果するであらうか。思想家も政治家も歴史の弁証法について大いなるヴィジョンをもたねはならぬ時代は来てゐるのである。
(一九三六年十二月一日)