統制と空想
現在、統制主義といふのは、あらゆるものを一定の政治的目的に従属させる政治主義である。統制経済と云つても、純粋な経済的原理に依つて経済を統制することでなく、寧ろ政治的見地に従つて経済を統制することであらう。それ故に統制主義は自然性を否定すると共に、自律性を否認することになる。
政治は最も実際的なものである。併しまた政治ほど空想的なものもない。統制主義が強化される場合、経済の如き現実的なものも、その自然性を失ひ、自律性を奪はれ、そして謂はば空想的な基礎に立つことになる。空想的な基礎に立ちながらそれがとにかく推持されるのは、政治的権力に依る統制が強行されるためである。
現代における独裁政治は、自然性と自律性とを基礎とする自由主義を否認し、この立場からは空想的と見えるやうな基礎の上に統制主義を実行してゐる。この政治的実験は従来殆ど不可能と思はれたことが或る程度まで可能であることを示してゐる。
我々は必ずしも統制主義に反対しないであらう。我々の悲しむのは却つて、この場合政治家にヴィジョンがないといふことである。統制主義者は善かれ悪かれ空想家である。不幸は、どのみち空想家たらざるを得ぬ彼等に幸福な空想がないといふことである。政治的ヴィジョンを有しない統制主義が近頃官僚政治と云はれるものである。
馬場財政は三十億円といふ厖大な予算を編成した。我々はこの数字に驚きはしないであらう。一度走り出したものは停ることができぬ、後戻りは絶対に不可能である。今や我が国家の経済も空想的な基礎に立ち始めた。統制は愈々強化されるのほかない。我々はこのことをも敢て歎かないであらう。
だが如何なる統制主義も空想的なものを永続させるわけにはゆかぬ。現実は空想的なものに代られることによつて自己の没落を速める。現代の経済が空想的な基礎に立つに至つたといふことは、それに従来とは全く異る新しい現実性が与へられねばならぬことを意味してゐる。統制主義にはかかる新しい現実性を創造してゆくヴィジョンが必要である。ヴィジョンは単なる空想でなくて創造的であり、合理的な道によつて得られるものでないが本質は合理的なものである。
馬場蔵相はかやうなヴィジョンを有するであらうか。政治家に何等のヴィジョンもなく、しかも彼等の政治の基礎とするものは次第に空想的なものになりつつあり、極めて実際的であるかの如く自任してゐる者が実は単なる空想家であり、他方空想家らしく気取つてゐる者がその実没落しつつある古い秩序に固執する現実家に過ぎないといふのではないか。
(十一月二十四日)