取締政治

 先夜自動車の中で私はふと考へた、一体この車内の電燈は何のために必要であらうかと。大抵の人は自動車の中では静かな気持を欲するであらう、私などただ電車やバスの騒々しさを避けるためにタクシーに乗るといふ場合が多い。静かな気持を欲する者にはこの電燈は邪魔になる、車内は暗い方が好いのである。
 そこで私は、この電燈は車の運転上必要であるのかと、運転手に尋ねてみた。それは運転にとつても却つて妨害になる、車内の電燈が車の前面のガラスに反射するために幻覚を起すこともあるさうだ。併しそれを点じてゐないと二円の科料に処せられる。この電燈はただ全く乗客に対する取締のために必要なのである。運転手は斯う答へた。
 取締!それは我々の生活のあらゆる方面に立入つてゐる。それは外国人には考へられないやうな所にまで及んでゐる。かかる取締は近来益々強化される傾向にあり、そのために民衆の生活は愈々窮屈なものになつてゐる。およそ我々は「生の悦び」の観念を持つてゐるか、また持ち得るのであるか。
 取締政治は国民の道徳心を向上させるものでなく、寧ろ反対である。取締の強化は人々に、法律にさへひつかからなければ何をしても好いといふやうな観念を植ゑ附け易い。人間は、自由が認められてゐる場合却つて、自分の責任を強く感じるものだ。我が国において社会の道徳的制裁が微弱であること、また公衆道徳といふものが発達してゐないことなども、あまりに厳重な取締政治が行はれてゐる結果であると考へ得るであらう。
 取締政治は人間性の明るい方面を見ないで暗い方面のみを見てゆく。それは民衆に対する封建的な考へ方であるが、官僚政治はとかくそのやうな傾向を有するのである。人間性に対する信頼に基いて民衆を信頼するといふことが、現在我が国の政治に要求されるヒューマニズムの精神である。
 指導政治と取締政治とは、外見が類似するにしても、実質は反対である。政治に真の指導精神が有しないとき、或ひはその指導精神と称するものが大衆性を有せず、従つて真の指導性を有しないとき、政治は取締政治となる。真の指導政治は大衆性を有するものでなければならぬ。大衆性を有しない指導政治は何等指導政治でなく、いはゆる官僚的独善主義の如きものに過ぎない。
 近年頻りに指導政治といふことが云はれてゐるが、それが真の指導政治であつて、取締政治の粉飾でないことを要望する。


(十一月十七日)