故郷なき市民

 市会議員の質の向上が東京にとつて焦眉の必要であるとは、久しく云はれてゐることである。都制が布かれて、市会議員が都会議員と名を変へようとどうと、この必要には変りがない。
 智的に啓蒙された人間、政治的な関心を有する人間が最も多い筈の東京の如きにおいて、その市民の選出する議員の質が最も屡々問題になるといふことは、ちよつと解し難いことのやうである。それには種々の原因があらうが、中にも、市民に愛市心が乏しく、愛市心が乏しいことは市民が自分の住む都市を故郷として感じないのに基くといふことが、その原因の一つとして挙げられてゐる。市民の多数は地方から移つて来た者であつて、その住居も常なく、東京に対し故郷の愛を抱いてゐないと云はれるのである。
 近代都市の住民は故郷を持たない。これは彼等がこの都市で生れたものでないといふことにのみ依るのではない、そこで生れた者にしても故郷の感情といふべきものを持たないのである。故郷を持たぬといふことは近代的市民に本質的な意識に基いてゐる。なぜなら「故郷」と云はれるものは多く封建的なものと結び附いた感情であるからである。山河、墳墓、祖先以来の定着地、また祖先以来互に知り合つてゐる人間の生活、かやうなものが故郷の意識を形作つてゐる。それは根本において封建的な生活様式と結び附いたものであり、近代的生活と共に破壊されてゆく性質のものである。
 従つて近代的市民の愛市心は故郷に対する愛の如きものとは異る性質のものでなければならぬ。それ故にまたその選出する市会議員の質が良くないといふことは、都市生活者がこのやうな新しい社会意識を有せず、却つて封建的なものを多く残存せしめてゐるのを現はすことになるのである。真の愛市心の基礎となるやうな新しい社会意識が作られるためには、公園、グラブ、会舘、運動場、図書館、消費組合等々の諸公共設備の発達が緊要なことであらう。
 東京市民などが愛市心に乏しいのは、彼等の中には市のことよりも国家全体のことに関心を有する者が多いためであるとも云はれてゐるが、併し愛市心がもし「故郷」に対する愛の如きものであるとすれば、それは局限された、地方的利害を中心としたものとなるのであつて、かやうなことが実は従来地方の政治、延いては国家全体の政治にいろいろ弊害をもたらしてをり、これは地方においても克服されねばならぬ封建的意識である。


(十一月三日)