古典と検閲問題

 検閲のことがこの頃また喧しく云はれてゐる。映画に、出版に、ラヂオに、レコードに、絵画に、その他各種の興行物に、言ひ換へると文化のあらゆる方面に亙つて検閲が強化され、論議を生じてゐる。これは主として現代物に関することであるが、古典に就いても同様、種々問題があるのである。
 日蓮聖人の遣文には、今日の國體観念及び社会情勢から見て不穏当な点が尠くないといふので、先にもその遺文集が数個所に亙つて削除を命ぜられたことがあつたが、最近またまた、聖人の書を自叙伝風に編述した一書が検閲にひつかかり、問題を惹起してゐる。日蓮といへば普通には最も熱烈な愛国者と考へられ、且つ聖人の崇拝者には愛国主義者国家主義者と称するものが多いのであるが、その遺文がかやうに屡々削除の厄に会ふといふことは世間の常識に反することである。
 尤も、聖人が現代の日蓮主義者と同じ型の愛国主義者国家主義者であつたかどうか、疑問である。その性格のみから云つても、宗教的人格日蓮は彼等の如く単純な人間でなく、日本人としては殆ど類のない複雑な深さがあつたやうに思はれ、その点で私などもひそかに聖人を思慕してゐる次第である。それはともかく、古典にして近年検閲に関する災害を蒙るものは日蓮の書に限らないので、調べてみればなかなか多いのである。
 いつたい古典とは種々の解釈を容れ得るほど豊富な内容を含むもののことである。唯一通りの解釈しか許でないやうな書物は永続性を有しないと云つてもよいので、種々の時代において種々の立場から種々に解釈されて絶えず新しい意味が見出され、新しい影響を与へ得るものにして永続性を有し得るのである。古典はその解釈の歴史を有し、この歴史は一般の思想史と歩調を一にして変化するのがつねである。
 或る時代に重要とされなかつた個所が後の時代に重要とされ、或る立場から問題にならなかつたことが他の立場から問題にされるやうになる。それ故にもしそれぞれの時代にそれぞれの立場から不都合と考へるところを次第に削除してゆくとすれば、遂には原文の何物も残らないといふことになるであらう。今日不都合と見られる部分が後世の人には却つて甚だ貴重と考へられるに至るといふことはあり得ることである。従つて古典はどこまでも原形のままで伝へるといふことが文化に対する我々の義務でなければならない。
 かくて一般に検閲に関して無制限な自由があるとは思はないが、検閲の強化が文化の破壊となるべき性質を有することは注意を要する。やがて「古典」となるべきものが現在作られてゐないと誰が保証し得るであらうか。

(十月二十七日)