青年日本

 青年は人生において最も抽象的な時期だ。その思考は純理的で、また理想的で、その感覚も感情も新鮮で主観的である。青年は理論のために身を破滅させることもできるし、学問や芸術のために実生活を犠牲にすることもできる。実生活から見れば理論は抽象的なものだし、日常生活の具体性に比しては学問や芸術、その他一般に歴史的と云はれる行動は抽象的なものだ。
 抽象的なものに生き得るといふことが青年の特徴であり、青年性とは抽象的なものに対する情熱のことである。この情熱を失ふとき、ひとは老人になる。私は何も青年が感情に破滅することを望んでゐるのではない。今日の青年に対し特に望ましいものは科学とか理論とかといふ抽象的なものに対する情熱である。彼等の現在の精神的状況にとつて極めて顕著な現実主義が彼等からこの情熱をも奪ひ去つてゐはしないかを恐れる。
 一体、抽象的になり得るといふことが人間の特性である。動物も神も抽象的にはなれないであらう。人間のみが主観主義的抽象性にも逆にまた客観主義的抽象性にも陥り得るのである。主観主義と客観主義とは決して遠く離れたものではない。科学のやうな客観的抽象的なものが発達しなかつた従来の東洋においては純粋な主観主義も発達しなかつた。
 東洋思想から見れば西洋思想はいかにも抽象的だ。東洋人の生活及び文化の具体性は高く評価されて好いと思ふ。併し抽象的になるといふことは、神もしくは自然と等しくなることでないにしても、極めて人間らしいことであつて、西洋思想の一般的基調がヒューマニズムであり、伝統的な東洋の自然主義乃至実相観にヒューマニズムの要素が乏しいといふことも、そこに理由がある。西洋人の生活及び文化にとりわけ青年らしさが感ぜられるのも、そこに抽象的なものに対する情熱が動いてゐるからである。
 もとより抽象的なものはどこまでも超克さるべきものだ。だが先づ抽象的なものを徹底的に追求した上で弁証法的に達せられる具体性でなければ真の具体性ではなからう。我々は東洋的人間として抽象的なものを最初から恐れ、斥ける性向を有するために、あまりに屡々無思想に、もしくは折衷主義的無理論に陥つてゐはしないか。「青年日本」は科学、理論、思想といふ抽象的なものに対する情熱から生れ得るのである。


(十月六日)