人文教育の矛盾

 我が国の中等学校高等学校などで一般に課せられてゐる漢文といふものは、西洋諸国におけるギリシア・ラテンの古典に相応すると云はれるであらう。それは人文教育と称せられるものである。教育における単なる実利主義、能率主義の立場からかやうな人文教育の不必要を唱へる説には遽に賛成し難いが、しかし漢文乃至漢学と西洋古典との問には性質的な相違があり、我が国における人文教育上大いに反省を要するものがある。
 先づギリシア文化の如きは、そこに学問の理念が生れ、諸科学の淵源が有し、かかる古典を基礎とする人文教育は知識や科学に反対しないけれども、漢学的教養の結果は今日も屡々智育を軽視もしくは排斥する傾向を生じてゐる。漢文で鍛へられた人間にはかかる人文教育の好さも確かに認められ得るが、科学に対して救ひ難い偏見を有する者が少くないことも事実であらう。
 次に漢文は人文教育と見られ得るにしても、その内容は支那古典の一特性としてヒューマニスチックであるよりも遙かに著しく政治的イデオロギーを含んでゐることに注意しなければならぬ。人文的教養と考へられる漢文は人々の心におのづから一定の政治的イデオロギーを深く浸潤させる。いはゆる治国平天下式イデオロギーであつて、我が国の政治家、官吏、軍人等の政治思想は今日もこの種のものに止まつてゐるのが案外多いのではないかと思ふ。そしてそれが政治についての進んだ科学的見方の障礙となつてゐる。
 漢学的教養のかくの如き弊害の影響は今日の支那問題にまで及んでゐはしないであらうか。それは特に支那についての、就中その政治的部面についての科学的考察を妨げてゐる。政治家、官吏、軍人等の「支那通」の科学性が疑問である。今日の支那の外交をいつまでも「以夷制夷」とか「遠交近攻」とかと批評してゐるやうでは、問題の解決は覚束ないのではないか。いづれの国の外交に夷を以て夷を制すとか遠交近攻とかといふ要素を含まぬものがあらうか。問題の本筋をもつと的確に捉へなければならぬ。日支親善と云つても、いつまでも治国平天下式イデオロギーを基にしてゐては無力に終らざるを得ないであらう。
 これは軍に対支外交にのみ関することではない。そこに我が国における人文教育について根本的に考へ直さねばならぬ問題がある。                


(九月二十二日)