二律背反の問題
                                   
 全国特高課長会議の結果内務省の邪教取締は強化されることになつたが、一方文部省でも専門学者を動員して学問的に邪教批判を行ふと云ふ。いはゆる邪教の蔓延の如何に深刻であるかを思はせる。
 学問的に邪教を批判するとなると、邪教と正教、迷信と正信の区別、進んでは知識と信仰、科学と宗教の関係を学問的に明かにすることが必要にならう。科学と宗教の問題は西洋においては重大なアンチノミーとして現はれ、キリスト教神学並びに哲学の発展を規定してゐる。我が国の仏教は古来そのやうな二律背反を知らなかつた。そこに東洋的智慧の特色が形作られ、その具体性があると共にまたその韜晦性が生じてゐるのではないかと思ふ。
 文部省の行はうとする邪教批判は宗教そのものの立場といふよりも思想国策の立場に立つものであらう。そこに宗教と政治の問題がある。一方陸軍でも広義国防の見地から宗教家の動員を企て、仏教各宗の有力者をもつて組織される明和会と軍部との懇談会が先般開催された。宗教と政治の関係は愈々密接になりつつある。宗教と政治も西洋においては絶えず二律背反の問題として現はれ、それがキリスト教の社会哲学の発展を規定してゐる。我が国の仏教は同じやうな問題を殆ど有しなかつた。近頃日本仏教の特質として国家本位といふことが頻りに唱へられるが、もしさうだとすれば、それは日本仏教が政治と宗教の問題をアンチノミーとして知らなかつたことを意味するのでなからうか。そこに日本仏教の現実主義の特色があると共にまたその現実主義が現実追随に堕し易い理由があるのではないかと思ふ。
 仏教は弁証法的だと云はれてゐる。ただその弁証法が科学とか政治とかといふ最もなまの現実に関はるものとの二律背反の問題に実際的にぶつつかつて戦つてゐないとすれば、その勝れた現実主義も、一方消極的には心境的なものになり易く、他方積極的には現実に対して批判的原理を有せぬ現実追随に陥り易いのである。例へば世間出世同といふのはひとつの二律背反である。この二律背反に固執すれば抽象性に陥る。併し抽象性に身を滅ぼす危険を冒し得る者のみがほんとに弁証法的な具体性を獲得することができる。真の宗教家はかかる現実否定の冒険をした人であらう。現実主義の名のもとに主観性の冒険がなくなり、弁証法の名のもとに抽象性の冒険がなくなり、かくて現実への屈従のみが今日目立つてゐるのは仏教界の為のことではないやうである。


                                        (九月十五日)