素人の説

 絵のことは分らんと云つた人が美術学校の校長になつた。それは多分謙遜から出た言葉であつ
たらう。絵のことは分らんと云つた人が美術院改組に手を著けた。だから問題は特定の個人に関
しない。前文相川崎氏は文政については素人であつたが、今の文相平生氏も素人らしさがあると
云ふので却つて好感を持たれてゐるやうだ。
 由来文政闘係では特にさういふ素人が多いことに注意すべきである。美術学校の校長が絵のこ
とは分らんと云つても、それで通るのである。これが他の方面になると、大蔵大臣が、おれには
租税のことは分らんと云ひ、司法大臣が、おれには民法のことは分らんと云つて、それで通るで
あらうか。そこに少くとも伝統的な文政軽視が認められる。ただ思想問題だけは別のやうで、お
れには思想のことは分らんと公言する人はゐないのが不思議である。思想のことは絵のことより
も容易なのであらうか。
 素人の長所は屡々説かれてゐる。専門家の眼界が局限され易いに反して素人は大局に目を附け
ることができる。専門家が情実にとらはれるに反して素人はそれにとらはれない。専門家が臆病
になりがちなのに反して素人は大胆に行動することができる。だから改革には素人が適任だ。確
かにそんなところがある。今日の如く改革の要求される時代には各方面において大いに素人の意
見を用ひることが必要であらう。
 併しさういふ「素人」とは何であるか。もし素人といふ意味が或る事柄について元来無関心で、
従つて全く無知であることならば、そのやうな素人の考へは用をなさない筈だ。また素人とは専
門家の偏執を有しないものといふ意味であるならば、素人と云はれる人が実は素人でない場合が
少くない。法科万能の我が国では、或る事柄について素人と称する人が何等素人でなく、却つて
法律的な考へ方にとらはれてゐることが多いのである。何でも法律的な頭で考へてゆくのでは素
人の好さは現はれない。特に法律的な頭は前例といふものを甚だ重んずる。だから素人であつて
も思ひ切つた改革は行ひ難いのである。
 ほんとの素人は治める者に対して治められる者、命令する者に対して命令される者、教へる者
に対して教へられる者の中にある。後者は前者の行動について直接の利害と関心を持ち、しかも
前者とは逆の立場、裏の側から物を見ることができる。つまり素人を重んずるとは大衆の考へを
重んずることであり、素人であらうとする者は大衆の立場を代表する者でなければならぬ。さう
すれば事に当るのは専門家であるのがよい。


(九月八日)