英雄主義の待望
青年論だの、道徳論だの、ヒューマニズム論だのが相変らず論壇のトピックとなつてゐる。一体それらを問題にすることによつて何が期待されてゐるのであらうか。私はそこに英雄主義の待望を感ずる。
何もかも衰弱してゐる。不健全などといふ比ではない。不健全と云はれるものは見方を変へると健全だとも云ふことができるが、衰弱してゐるものはどうにも弁護の余地のないものである。とりわけ思想の衰弱は甚だしい。思想の混乱などと云ふのは、現在では誇張乃至虚栄に過ぎず、目立つて感ぜられるのは思想の衰弱である。
かやうな衰弱は局限された現実への追随もしくは妥協から生じてゐる。局限されたといふのは、発展的に見られてゐないといふことである。そして悪いことには、かやうな追随または妥協が現実主義或ひは客観主義の名において弁護されてゐる。現実主義は一つの思想であるが、そのやうな追随または妥協はさうでなく、却つて現実主義の思想の衰弱から生じたものにほかならない。
不安の思想の衰弱が今日の不安であり、デカダンスの思想の衰弱が今日のデカダンスであり、ペシミズムの思想の衰弱が今日のペシミズムである。従つてそれらは何等人間性の高貴に値する不安でも、デカダンスでも、ペシミズムでもない。思想に生きる精神、抽象的なものに身を捧げ身を滅ぼす情熱が要求されてゐる。泥沼に落ち込んだ現実主義からの主観性の昂揚が英雄主義の名において要求されてゐる。思想といふ抽象的なもののために生きまた死ぬるといふことは非現実的だと云はれるであらう。併し現在のあらゆるものの衰弱状態は、感覚的な現実性だけではどうにも救はれないことを示してゐる。思想が現実よりも具体的であることを知るのが弁証法の精神である。
政治の衰弱も著しいではないか。庶政一新とか国策の確立とか、いろいろ元気のよいことが云はれてきたが、その庶政一新の国策が決定発表された今日において、誰もが痛切に感じてゐるのは政治の衰弱である。政治の衰弱は政治の無思想に由来する。ここでも要求されてゐるのは思想に生きまた死ぬるといふ英雄的精神である。
主観性の復権! 現代の唯物論と現実主義にも拘らず、寧ろそれらの故に、主観性の昂揚が要望されてゐる。それは現実が困難であればあるほど愈々要望されるのである。
(九月一日)