派閥の醜争
先般九州帝大医学部附属病院において、重病の婦人患者手術中の一博士を数名の同僚が室外に拉致して暴行を加へたといふ事件が生じた。これは単に学内の不祥事件にとどまらない。人命を預かる医者としての責任があくまでも追及さるべきである。
この不祥事件は派閥の暗闘に基くと伝へられてゐるが、近年多くの官立並びに私立大学における騒動がこの種の暗闘に原因を有することに注目しなければならぬ。由来、学校騒動は日本の名物であると云はれてゐる。その学校騒動も、往年の思想問題に影響された学生ストライキ時代には幾分明朗なところもあつたが、この頃の如く教授自身の問の暗闘が原因であつては如何にも陰気である。派閥の争ひといふやうな封建的なものが、最高の文化人と目せられる大学教授の間に存在するといふことは顰蹙すべきことである。
派閥の醜争は我が国の社会の諸方面において認められる。その弊害はもとより少くないが、なかんづく遺憾なことは、かやうな争ひのために社会から優秀な人物が失はれるといふことである。派閥の対立するところでは、特色ある人物は斥けられ、両派のいづれからもあまり問題にならないやうな平凡な人間が用ひられる。また一つの派閥に依頼する者は、その埒内からはみ出して自由に自分を伸ばすことができず、人間も学問も小さくなつてしまふ。今日我が国の社会の各方面において人物払底が歎ぜられてゐるが、その重要な原因の一つは派閥関係にあると思ふ。
派閥は主義や思想の対立に基くものでない。それは客観的な、公共的な原理に依る結合ではない。派閥の争ひの盛んな我が国においては、却つて、真の意味での学派の対立の如きものは存在しない。反対者の立場といふものが認められず、重んぜられず、また無力であること、我が国におけるが如きは稀であらう。流行といふやうなものによつて絶てが一色に塗られてしまふ。しかも、いはゆる全体主義の思想で塗りつぶされたやうに見える今日においても、派閥の分裂、暗闘は依然として到る処に存在する。反対者の立場を認めて公けの場所を与へよ。これが派閥の弊をなくする道である。
(八月二十五日)