「哲学のない日本」


 「我日本、古より今に至るまで哲学無し」と、中江兆民は書いてゐる。西周も同様の意見を述べたことがあると聞いてゐる。日本に哲学がないと云へば、反対する者、憤慨する者も多いであらうが、それは哲学といふ概念の意味の相違によることである。
 「哲学といふ概念を、西洋風にちやんと作り上げて来て、さてそれに当てはまるやうな物を、これまでの日本に捜し求めた時、あまり立派な物を発見し得ないのは無理もない話である」と、生田長江は書いてゐる。併し、この晩年一種の日本主義に転向した批評家も、次のことは認めねばならなかつた。「従来日本に、偉大なる思想及び思想家がなかつたといふやうな、馬鹿なことを言ふ人間があれば、流石の私も聞き流しにしないつもりだけれども、我々の先祖に、偉大なる学問も学者もなかつたぢやないかと言ふ者に対しては、残念ながら其の通りと、同ぜざるを得ないのである」。日本に哲学がないと云ふのは、長江のいはゆる「学問」としての哲学に関してゐるのである。
 同じやうに、日本の文学には思想がないと云はれてゐる。日本の文学に一般に思想がなかつたのではない。むしろ思想といふ概念の意味が現代の日本人の常識にとつて変つてきてゐるのである。従来日本の小説は情事小説のみであつて、懸愛小説はなかつたといふこと(中村武羅夫氏)も、日本の文学には思想がないといふのと同様の意味において云はれ得ることである。
 日本に哲学がないと云へば、そのやうな哲学は日本には不要だと考へられるかも知れない。併し事実は現在全く反対になつてゐることに注意しなければならぬ。
 スペインの内乱を契機として愈々明瞭になつたヨーロッパの混乱は単にフランス、ロシヤ、ドイツ、イタリアといふやうな国と国との争ひとしてのみ見ることができぬ。それは階級と階級との争ひの意味を含んでゐる。しかもそれは特に思想戦争の意味をもつてゐる。それは昔の宗教戦争に代る新しい思想戦争である。もしさうだとすれば、この世界的危機に、日本は如何なる思想、如何なる哲学をもつて対しようとするのであるか。いはゆる日本的思想は如何にして国際的妥当性を有するのであるか。
 日支親善、日英同盟の復活などと云つても、それは今日もはや単に国と国との一問題に留まらず、階級の問題、更に特に思想の問題を含むことを考へねばならぬ。日本に哲学があるかといふ問ひは、単に哲学者にのみ関はることでない。


(八月十八日)