愉快な義務
オリンピックのベルリン大会に日本のジャーナリズムは熱狂してゐる。武力による戦争が起つても、これ以上の熱狂は不可能であらうと思はれる程度に。国際的にはスペインの内乱、対支外交等の如き、国内的には謂はゆる国策の樹立、軍事費の捻出等の如き問題は、いづれもオリンピック競技とその重要性を競ひ得ぬものの如くである。或ひは人々は、それらの重大問題について考へるたびに襲はれざるを得ない陰鬱な気持を散ずるために、かくもスポーツに熱狂してゐるのであらうか。
ベルリン大会で日本の代表選手が続々好成績を収めつつあることは、我々の感激するところである。そして次の大会が東京で催されることに決定したのは、とりわけ愉快なことだ。我が国民の誰も喜んでこの愉快な義務を負ふであらう。それは確かに日本の獲得した権利であると共に日本に課せられた義務でもある。この義務をその全体の接がりにおいて考へることが大切である。
「一九三五・六年の危機のために」といふことが、これまで日本の標語であつた。然るにこれからは、「一九四〇年の平和のために」といふことが我々の標語とならねばならぬ。次のオリンピック大会が不可能にならないやうに、世界平和の維持のために努力することが日本の第一の義務である。オリンピック競技こそ国際主義の真の精神を数へるものである。
次に、我々はオリンピックを単なるスポーツとしてのみ理解してはならぬ。今ベルリン大会が我々に齎しつつある感激の如何に多くの部分が科学の力に負うてゐるかを考へてみよ。ラヂオ、電送写真、等々の驚歎すべき発達なくして現在のオリンピックの熱狂は可能であらうか。一九四〇年を日差して科学日本の一大飛躍を期することが、これまた我々の愉快な義務でなければならぬ。
更に、もしまたオリンピック大会の来京開催が日本を世界に紹介するに絶好の機会であるとすれば、その時までに為すべきことは限りなく多いであらう。博物館、美術館、国書館などの拡張乃至新設の如きは云ふまでもない。しかし特に必要なものは健康日本である。健康日本を誇り得るに至ることは我々にとつて、スポーツの真の精神に合致した愉快な義務でなければならぬ。オリンピックに刺戟されて、スポーツが全く競技本位、記録本位、選手本位に陥ることのないやうに、今後特に成心を要するのである。
オリンピックに伴ひ易いスポーツにおける貴族主義、英雄主義乃至天才主義の揚棄がオリンピックの新しい精神でなければならぬ。
(八月十一日)