開いた心

 先年或る外国の新刊書を日本の学術雑誌に紹介してくれと頼まれたとき、私は、少くとも哲学や社会科学或ひは文化科学の方面においては、日本に果して真の学術雑誌が存在するのかどうか、迷はねばならなかつた。
 なるほど学術に関する雑誌は多数存在する。それは有力な校友会の存在する数だけ存在する。言ひ換へると、日本のいはゆる学術雑誌は学界の雑誌といふよりも校友会雑誌の性質をもつてゐる。それは各大学の各科で個別的に発行され、その執筆者も殆どそこの卒業生に限られてをり ― なぜなら他の大学、他の科の出身者がそこの教師に採用されることは極めて稀である ― 、その読者も主としてそこの同窓生を基礎としてゐるといふ有様である。それは学閥の機関であつても、学派の機関であるのではない。学会と云つても校友会的性質のものであつて、真に学会に属するとは云ひ難い。
 学界は世界性を有するものでなければならぬ。世界とは本質的には範囲の広狭に関することでなく、開いたものの性質を有するもののことである。閉ぢたものはその周辺をどれほど拡げても開いたものとはならぬ。両者の差異は量的でなく、性質的である。世界といふ言葉の意味する空間的な広さも、閉ぢたものに対して開いたものの有する根本的構造の一つの表現乃至象徴にほかならない。専門といふものもかかる世界の中において真の意味を有し得るのである。
 いま学術雑誌は単に一例であつて、同様のことは我が国の社会において到る処に見出される。我々は日本人の心の深さを疑はない。併しそこに欠けてゐるのは開いた心である。開いた心は客観的なものに向ふことによつて成立する。この「客観への転向」といふことが日本人に最も欠乏してゐるのではないかと思ふ。
 近頃国策閣議の停頓は種々の理由によるであらうが、その重要な一つがまたかくの如き開いた心の欠乏に有する。各大臣がそのいはば専門の立場をめいめい尊重することは何等非難さるべきことでない。停頓はそこから来てゐるのでなく、日本の社会においてもつと日常的なことから来てゐる。従つてその責任は大臣だけにあるのでなく、各省の官吏の全体にある。政策を綜合的に樹てるために無任所大臣を置くといふ説もあるが、真の専門家が存在しないところに真の綜合家が存在し得るであらうか。真の専門的立場は開いた心において成立するのである。

(八月四日)