「転向」の性格

 転向といふ語も現代に特殊な語彙に属する。それは勿論、左から右への転向のみでなく、右から左への転向をも意味してゐる。周知のジードの転向の如き、後の場合である。転向は日本のみの現象ではなからう。併しそれは日本的性格を示す特徴的な現象である。
 嘗ていはゆるマルクス主義の華かなりし頃、多くの人々がそれへ転向した。また近年ファッシズムが盛んになると共に、多数の者がこれへ転向してゐる。左への転向にせよ、右への転向にせよ、甚だ安易に行はれる。かりに日本にヒトラー的政治が出現するとしても、あのドイツで見られたやうな悲劇は多分起らないであらう。自由主義者もいつしか国粋主義に転向してゐるであらう。先程まで外国の最新学説の紹介に憂身をやつしてゐた学者が、今はもつと間に合はせの日本主義を唱へ、それについて厖大な著述をさへするといふのが現状である。人格とか道徳とかを喧しく言ふ教育界にかやうな現象が特に著しいといふことは矛盾であつて、注目すべきことである。左への転向の場合においても、我が国の知識人にはジードの如く良心の永い試煉を経つつ転向した者は殆ど見当らない。
 相反するものに直ちに転向し得るといふことは日本的性格である。私はこの性格を無形式の形式と呼ぶ。それは形あるもの、客観的なものに固執しない性格である。それは淡白とも融通性とも云はれ、日本人の現実主義的な強さを現はしてゐる。併し他面それは日本人が主義的思想的には頼りのない人間であることを意味してゐる。日本の歴史には科学や哲学の如き客観的文化が発達しなかつたと云はれる事実の原因も、そこにある。かかる日本的性格は、日本の社会が狭いために自由に乏しいといふこと、日本における自由主義の発達が不十分であつたといふこと等にも関係があらう。何にしても、そこに欠けてゐるのはヒューマニズムである。主義者が検挙されると、官憲から転向を勧説されるといふが如き、如何にも日本らしい好さがあるが、その一面には思想並びに人格の尊重の観念の欠乏を現はしてゐる。
 ところで転向といふ語が普通に左からの転向にその意味を奪はれ、多くのいはゆる転向文学においてそれが客観的表現に齎されたといふことは重要な事実である。そこに伝統的な日本的性格とヒューマニズムとの相剋が自覚されねばならない。転向者の転向は日本的性格によることが多いであらうが、彼等はそこに安んじ得ないで、人格の徹底、科学的真理の尊重などといふヒューマニズムの要求する良心の問題を負はされた。主体の新たなる鍛錬、新しい人間を作ることが必要である。だが最近右へ右へと転向してゆく人々にかかる良心の問題が有するであらうか。

 (七月二十八日)