世界の認識

 外国から日本へ来る観光客は定年頓に増加した。それは日本に対する外国の関心が増大した一つの兆しとして喜ばしいことである。彼等の落してゆく金が我が国の国際貸借の帳尻に相当の結果を現はしてゐるとすれば、それも結構なことである。
 外人観光客の増加は喜ぶべきことに相違ないが、立場を変へて考へると、ただ喜んでばかりもゐられぬことである。我々が彼等と同様に容易に外国見物に出掛け得ないといふことは、彼我の国民の富、所得における懸隔を示すものである。しかも彼等と我々といづれが多く世界を知る必要を有するかと云へば、地理的並びに歴史的事情から考へて、それは寧ろ我々であらう。
 日本人の「島国根性」といふてとは永い間我々日本人の間で合言葉となつてゐた。この自己批判的な言葉のうちに本当に日本人の逞しい気宇が表現されてゐたのである。ところが近来「日本精神」といふ言葉が流行し始めてから、あのやうに屡々聞かれた島国根性といふ言葉が殆ど全く聞かれなくなつてしまつた。しかもかかる日本精神主義者の思想や行動のうちに実は島国根性の要素が多く残存しはしないか、反省を要するのである。
 現代の日本にとつて世界は甚だ拡大された。けれどその世界は今日も我々にとつてその多くの部分は観念的存在に止まつてゐる。欧米人が交通によつて相互に知つてゐるやうな仕方で我々は実際に欧米を知つてゐるのでない。日本の教養ある階級においてすら隣国支那を実地に知つてゐる者は意外に少数である。その意味で日本は現在に至るまで比較的に閉された社会である。
 かかる事情に相応して、従来日本における外国文化の移植の如きも観念的な仕方で行はれた。外国の風土、風俗、生活についての実際の知識を欠いた精神的文化の抽象的な輸入がなされてきた。そこから屡々外国に対する抽象的な崇拝が生じた。我が国民に古来外国崇拝の風ありと云はれるのも、右の如き文化移入の仕方における抽象性に一つの理由を有するであらう。しかも他方この頃の外来思想の排撃もその抽象的なことにおいてそれと同等以上である。かくの如き抽象性から脱却するために多数の日本人が外国へ見物や見学に出掛けるやうになることが望ましい。
 それによつて今日の日本にとつて最も憂慮すべき国際的孤立の危険についての国民の認識が深められることは特に切実な必要である。それは「躍進日本」に対する外国の嫉視に過ぎぬかのやうに云つて自ら慰めてゐるべき問題ではないのである。 

        
(七月二十一日)